高橋赳太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 13:52 UTC 版)
参考文献
- 村上晋編『大正武道家名鑑』、平安考古会
- 『剣道家写真名鑑』、剣道家写真名鑑刊行会
- 宮内省監修『皇太子殿下御誕生奉祝 昭和天覧試合』、大日本雄弁会講談社編
- 『剣の達人111人データファイル』、新人物往来社
- 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』、光文社
外部リンク
注釈
- ^ 赳太郎は次のように述懐している。明治二十年頃の警視庁には鬼総監といわれた三島通庸氏が居られ梶川、上田、逸見、得能などの大先生を始めとし、有名な剣客は殆んど此処に集まって居りました。当時の警視庁は有馬屋敷跡にありまして、之を訪ねて上京した次第を述べました処、先方では田舎から出て来た若者の心を試すつもりか、道場の前の雪が四、五寸降りつもっている庭で、折から警視庁に来合せて居りました蜂谷松造と試合をさせられました。此の蜂谷という人は大阪の曽根崎警察署に居って警視庁にて修行するため滞在して居りました。当時道具竹刀をかついで警視庁の門をくぐって無事昼の食事を済まして帰れば一人前だと言われた位稽古の烈しい処でした。この蜂谷との試合には上田、逸見などの先生方が立会われましたが、中々「それまで」と言われない、雪の中のこととて前後進退など足さばきが至って悪く意に任せない。足の感覚など勿論なく、ともすれば倒れそうになるが私もまだ二十代の血気盛んな時でしたし、神戸を出る時の寺田警察部長の言葉を思い出せば、これしきのことに弱ってどうするものかと元気を出して無事に試合を済ましました。此の雪中試合が済むと道場へ案内されて真貝、得能、兼松、渡辺などという警視庁で指折りの使い手十数人の方を相手として稽古を願いましたが、之等の剣客が代る代るに稽古に出られるので息つく暇もなく而も遠慮会釈のない使い振りでした。之も漸く済まして別室で昼飯の御馳走に預りましたが、何事もなく食べられました。此の時の雪中試合のみは未だに忘れません[1]。
- ^ 中西派一刀流自身は、流名を小野派一刀流としており、高野も小野派を名乗っている。
出典
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