芹沢長介
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専門分野
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研究概要
もとの研究分野は縄文時代だったが、彼は放射性炭素年代測定の結果によって日本列島に相当古くから人間がいた可能性を指摘し、議論を起こしつつあった。そのころ、大学組織に所属せず、在野で研究活動を行っていた相沢忠洋が、従来、人類は生存していないと考えられていた関東ローム層の赤土層(後に岩宿遺跡と名付けられた。)から、幾つもの石器を採集した。芹沢は、相沢から相談を受けると、相沢の採集物を旧石器時代のものと確信して、明治大学の杉原荘介、岡本勇、相沢忠洋などと共に、岩宿遺跡の発掘調査を行った。これを契機として、それまで日本に旧石器時代はないと見なしていた日本考古学界に論争を巻き起こした。
以後、芹沢は、日本における旧石器時代の研究にも尽力し、矢出川遺跡など、他に先駆けて中石器に相当する細石刃を出土する遺跡の調査を行い、さらに、後期旧石器のみならず前期・中期旧石器も存在する可能性があると論じ、積極的に全国の遺跡の調査を推進した。また、「遺物の年代は、層位が型式に優先する」との理論を提唱した。 ただし、前期・中期旧石器に関しては、人工遺物の石器ではなく、自然石の破砕により石器のように見える偽石器であるとする見解も強かった(前期旧石器存否論争)。それに対し芹沢は、石器の使用に伴い生じる石器の小破損痕や磨滅痕を調査し、物証を以て人工遺物であることを検証できないかの視点から、国内初の石器の使用痕研究を推進すると共に、前期・中期旧石器と考えられる石器を出土する遺跡調査を実践した。
しかし、一連の調査の過程において、研究の常道を踏み外したアマチュア研究家による旧石器捏造事件があったことが発覚し、また、このアマチュア研究家が関与した遺跡の多くに捏造が含まれていたことが判明したことから、国内での前期・中期旧石器の調査研究は大きく後退する結果となった。
前期旧石器時代の研究
1964年、芹沢は、大分県早水台遺跡の発掘を始めとして、栃木県星野遺跡の調査、群馬県岩宿遺跡の再発掘など、3万年よりも古い層を狙って、日本始源文化の探求を行った。 大型の礫(れき)や剥片を素材とするチョッパー、チョッピング・トゥ―ル、ハンドアックス等を伴う早水台遺跡を約10万年前の石器群とし、大型・小型の珪岩(けいがん、チャート)を用いて尖頭器、彫刻刀、スクレイパーを造る星野遺跡の石器群を約5~8万年前の石器群に位置付けた。日本の前期旧石器時代は、早水台から星野へとの流れが設定できるとした。外国では、前期・中期・後期と3時期に細分するが、日本では中期が不明なので、前期と後期に分けることにし、前期・中期を一括して、前期旧石器時代の石器群と呼んだ。
後期旧石器時代の研究
芹沢は、1949年の岩宿遺跡発掘で、日本に旧石器時代の存在が確認された後、1953年頃まで茂呂遺跡、杉久保遺跡、馬場平遺跡、矢出川遺跡等で発掘調査を行い、立川ローム層に含まれる石器文化の編年と、その様相を明らかにした。その後も、磯山遺跡、岩戸遺跡、塩坪遺跡、タチカルシュナイ遺跡、荒屋遺跡、福井洞穴遺跡等を発掘した。 後期旧石器時代では、石斧やナイフを持つ、石刃石器群から、尖頭器を主体とする石器群へ、更には、細石刃(さいせきじん)石器群へ、との変遷を明らかにした。
晩期旧石器時代の研究
約1.2~1万年前の時代で、旧石器から縄文時代にかけての過渡的な時期である。芹沢は中石器時代とも呼んだ。九州では細石刃と土器が共存し、本州と四国では、有舌(ゆうぜつ)尖頭器に土器が伴ったり、伴わなかったりする時期でもある。更に、同時期か少し遅れた時期に、局部磨製片刃石斧も出現する。晩期旧石器時代の日本列島は複雑な様相を呈する。
固有名詞の分類
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