福島第一原子力発電所1号機の建設 建設費

福島第一原子力発電所1号機の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/03 01:05 UTC 版)

建設費

1号機の建設費は約400億円前後と計画された[197][注 64]。プラント本体の正式な契約は1966年12月であるが、その後1967年2月、東京電力はGEとの間で核燃料契約に調印している。酸化ウラン1ポンド当たり5ドル96セントのレートであり、東京電力としては原料の入手が比較的容易な時期に契約するのが有利と判断したためである[198]

契約当時公表された総建設費は384億円で、米輸出入銀行及びGEのメーカーズクレジットは内約126億円であった[37]。国産部分については通産省の重電国産化促進措置に伴う財政投融資を受けた[199]

『電力新報』1979年12月号によると実績は390億円でほぼ予定通りであった。

なお、ストライキにより遅延した期間があるため東京電力がGEにペナルティを請求するかについても関心が寄せられたが、ストによる直接遅延4ヶ月分のほか2ヶ月分の許容範囲を置かざるを得ないと結論し、請求は行われなかった[200]。なお、この遅延による損失額は遅延期間に発電したとして換算した額で約30数億円であった[201]

その他

福島原子力調査所
1964年12月に設置された福島調査所は小所帯で事務所と宿舎を一体化したもので、その前までは大野駅前の商店と民家を間借りしたものに過ぎなかった。新設した調査所の建物は他地域の水力発電所の建設が完了して不要となった資材を移設したもので、三畳の一人部屋だった。最初の調査メンバーは猪苗代電力所からの異動者を中心に1966年9月時点で35〜41名程度であった[202]。この頃の飲み場は大野駅前であることが多かったという[203]。その後調査所が改組され福島原子力建設所となる。佐伯正治によると、調査所の頃に敷地内の海岸近くに古墳らしいものが発見されたことがあるという。誘致関係者にとってこの出来事は文化財が出土して工事区域が制限される不安を助長したが、地元の研究家等により発掘作業を実施しても何も発見できなかった[204]

進入路
1号機の建設とともに高台部分から掘削した整地面に降りるため、緩勾配のついた東西方向の舗装路が建設され全景写真でも識別できるが、それ以前は後の3号機付近に設けられていた御芋沢、小芋沢という場所から海岸に進入するしかなかった[205]。1号機の道路を建設している際にも大雨で造成箇所が流されて全てやり直しになったこともあったという[184]

事務方
当所は事務方の業務にも障害が多く、工事用記録写真、測量機材や事務用品はいわきか仙台までで足を伸ばしての調達を強いられた[203]。また、GEとの契約では納期管理を含めて全て英文のためGEの代理店の他双葉高校の英語教諭の協力を得て文書を和訳した。当時は外貨使用に制約のある時代であり、輸入品の購入は年度初めに通産省の割り当て申請を行って枠を確保しておく必要もあった。初めての行為は(原子炉関連を除いても)申請等を受け付ける役所側にもあり、福島県にとっては民間からの公有水面埋立は初であり、建設所は何度も説明を繰り返したという[206]

東京電力のストライキ
GE側ばかりではなく東京電力側でもストライキに関する小エピソードが残っている。1968年頃、隠密裏に社長の木川田一隆が来所したこともあったが、ストライキ中で臨時の職員で応対したこともあるという[205]。また、1号機の竣工式は春闘に伴う組合員のストライキにより管理職のみで実施した[207]

図面管理
また、森谷淵は、GEの技術図書管理について「シンプルだが厳密なもので、設計変更などをその都度図面化してフォローしてゆくやり方は、新しい技術図書管理(記録管理)手法として学ぶべきものがあった」と述べている[208]

記憶の風化
また、1968年に火力部門から異動して1号機の工事に当たったある社員は「運転開始から数十年経過し、建設当時の経験が世代交代しても引き継がれていないこと」「今は、出来上がったプラントがどういう設計基準で、どういう目的で、どのように稼働させているとか、基本的なことを身に付ける前に、まず、現場に行って修理をしなくてはいけません。しかし(現在は)事務処理で基本的なことを身に付ける前に仕事仕事で事務処理に追われ、どこか「歪み」が出て来ます」と苦言を呈している[209]

運転開始

1971年3月26日、GEから東電に正式にキーが渡され(イミテーション的な意味を込めて、実際に鍵が製作され引渡し式にて納入された[210])、1号機は公式にも運開を迎えた。電力系統全体へのインパクトとしては、1970年夏季ピーク終了以降、本機の竣工の他君津火力発電所3号機(35万kW)、勿来火力発電所7号機(25万kW)、鹿島火力発電所1号機(60万kW)などが加わったため、供給力は売電を含め1805万kWとなり、1971年夏季の供給予備率は5.8%と予想され「ほぼ適正に近い」とされた[211]。46万kWでの運転開始は8ヵ月後の1971年11月30日の午後からである[212]

1971年5月10日の慰霊祭では本機建設による殉職者は4名とされている[213]







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