松平寿子 松平寿子の概要

松平寿子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 14:39 UTC 版)

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生涯

文久2年(1862年)2月、浜田藩主(越智松平家)・松平武聰と結婚した。武聰は水戸藩9代徳川斉昭の十男で、徳川慶喜の異母弟である。

慶応元年(1865年)1月、長男・熊若丸(のちの武修)を出産した。越智松平家では、正室が嫡子を産むことは絶えてなく、また養子が続いていたため、領内挙げての喜びとなった。

浜田藩は、その領国の位置からも藩主武聰の血統からも、長州藩に対する矢面になる立場にあり、慶応2年(1866年)6月の第二次長州征伐では、一の手として派兵し、苦境に立たされることになった。加えて武聰はこの頃、ほとんど病床にある状態であった。浜田藩は退陣を重ね、7月18日、居城浜田城を自焼退城する。

浜田城を包囲され、単独死守が難しくなった段階で、家老等は寿子に熊若丸とともに立ち退くように進言したが、寿子は病床の武聰を置いては決して立ち退かないとし、熊若丸のみを退去させるようにと頑として受けなかったという。その後、重臣たちの協議の結果、病床の武聰も退城することとなった。

18日早朝に浜田城を出た寿子らは、その日の夕方に杵築に到着。22日まで杵築に逗留し、24日に松江に移った。松江藩松平定安の夫人熈姫にあてた書簡が現存している(熈姫の妹吉子は、寿子の弟正倫と婚約中であった)。8月10日、武聰は松江のままに、寿子と熊若丸は鳥取(武聰の異母兄池田慶徳が藩主)に移る。慶応3年(1867年)1月、幕府から解兵令が出され、美作国の飛び地(鶴田藩)に移動するよう命じられたため、3月武聰が、6月寿子と熊若丸が美作に移った。明治2年(1869年)鶴田藩として版籍奉還を迎え、明治4年(1871年)8月、武聰・寿子らは鶴田を発ち上京した。

明治26年(1893年)没した。享年47。

参考文献

  • 「浜田藩 松平武聰夫人 寿子(特集 300藩 大名夫人の幕末維新)」歴史読本49巻10号 2004年10月号、新人物往来社
  • 『日本史人名辞典』講談社



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