小菅神社 (飯山市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 15:06 UTC 版)
概要
権現(神名) | 勧請元 | 本地仏 |
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熊野権現(伊弉冉命) | 熊野三山 | 阿弥陀如来 |
金峯権現(安閑天王) | 金峯山(吉野) | 釈迦如来 |
白山権現(伊弉諾命) | 白山 | 十一面観音 |
立山権現(大国魂命) | 立山 | 無量寿仏 |
山王権現(大己貴命) | 蔵王 | 薬師如来 |
戸隠権現(手力男命) | 戸隠山 | 正観音 |
小菅権現(摩多羅神) | (小菅山主神) | 馬頭観音 |
小菅山の確実な創建年代は判然としない。しかし、社の由緒を伝える幾つかの古文書によれば、役小角によって開山された修験寺院・元隆寺が、小菅山の起源であるという。それらの文書が伝えるところを要約すると、仏法を広めるのに相応しい地を求めて役小角が諸国を巡っていた折、小菅山に出会い、神木霊草に満ちた山野のありさまに心を打たれているところに地主神が現れた。役小角は、地主神から、この土地が諸神集合の地であり、仏法を広めるにまさに相応しい地であり、地主神自らも守護を与えると告げられた。このお告げを受けた役小角が祈願に勤しんでいると、今度は小菅権現が出現した。小菅権現は、自らが馬頭観音の化身であり、仏法の擁護と興隆に力を貸すと告げた。役小角は、小菅権現を主神とし、併せて熊野・金峯山(吉野)・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7柱の神々を勧請し、祀ったという(表1)。
こうした由緒を伝える最古の文書は、おそらくは天文11年(1542年)、別当并衆徒中の名義による「信濃国高井郡小菅山八所権現元隆寺来由記」であろう。この文書は、上記の他にも、東夷の叛乱が八所権現の神威によって平定されたことを謝して、坂上田村麻呂が大同年間にこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂を再建したほか、元隆寺を建立し、諸塔堂を整備したと伝えている。
戦国時代には、小菅山一帯は、上杉氏の庇護下に置かれ、なかでも上杉謙信の弘治3年(1557年)の願文は、小菅山の由緒に言及している点で注目される。この願文で謙信は、坂上田村麻呂の名に触れつつ武運を祈念しており、小菅山信仰の広がりを読み取れる。しかしながら、しかし、そうした繁栄も、永禄10年(1567年)の川中島の戦いまでのことであり、この合戦で敗退した上杉軍を追撃する武田氏の軍勢によって、元隆寺は兵火に遭い本堂を除く堂塔はことごとく焼失した。その後も繰り返し兵火にさらされたため、元隆寺に常住するものがなく、慶長初年(1600年)頃には完全に廃墟と化してしまった。「信州高井郡小菅山元隆寺略縁起」(慶長5年〈1600年〉/元禄元年〈1688年〉)が伝えるところによれば、百年近くを経た元禄元年(1688年)においても、再建はなされず荒廃するままにまかされ、かつての伽藍も田畑や民家、荒野に帰してしまったという。
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 73-74]。
- ^ a b こうした隆盛期の小菅山を描いた絵図として、1566年(永禄9年)の銘がある元隆寺之図が知られている。この図では、上之院19坊、中之院19坊、下之院11坊をかぞえ、これらを統括する本坊大聖院には19の末院があったとされている。だが、既述の1561年(永禄4年)の川中島の戦いの兵難とこの絵図は年代が矛盾している。また、僧坊の名や、石垣の位置など年代と符号せず、疑問とすべき点も多い。こうしたことから、この絵図は、小菅の繁栄を示すため、近世になってから遡及的に描かれたものである可能性があり[信州大学・飯山市小菅研究グループ編 2005:76-77]、この絵図の史料としての信憑性には留保が必要である。
- ^ 『信濃史料』第7巻。
- ^ 『信濃史料』第8巻。
- ^ 『信濃史料』第13巻。
- ^ 「小菅神社所蔵棟札銘写」および「小菅神社所蔵鉄製鰐口」、いずれも『信濃史料』第17巻所収。
- ^ 信州大学・飯山市小菅研究グループ[2005: 78-79]。
- ^ 文化庁監修『解説版新指定重要文化財 11 建造物I』(毎日新聞社、1981)、p.74
- ^ 飯山市文化財編纂委員会[2002: 88-133]。
- ^ 信州の文化財(公益財団法人八十二文化財団)
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