三日平氏の乱 (鎌倉時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:16 UTC 版)
異説
岡野友彦は平氏側の拠点となった伊賀国六箇山の領家が平光盛(頼盛の子)であった事実と杉橋隆夫が唱えた牧宗親・池禅尼兄弟説(すなわち平賀朝雅の義母牧の方と平頼盛を従兄弟とする説)を採用して、この事件を平賀朝雅と平光盛ら池家一族が自己の勢力拡大のために平氏残党を唆して仕組んだ「自作自演」の可能性を指摘している[1]。
関連項目
参考文献
- 角田文衞 『平家後抄 〈上〉 落日後の平家』 講談社学術文庫 2000年(1981年刊行)。
- 永井晋 『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』 日本放送出版協会、2000年。
- 関幸彦・福田豊彦編著 『源平合戦事典』 吉川弘文館、2006年。
- ^ 岡野友彦「池大納言領の伝領と関東祗候廷臣」(初出:『大倉山論集』43号(財団法人大倉精神文化研究所、1999年/所収:岡野『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002年) ISBN 978-4-7971-0738-8 第二編第三章)
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