ラップランド戦争
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影響
ドイツ軍は作戦当初から道路と橋を系統的に爆破、破壊した。しかしいざ戦闘が始まると、ロタール・レンデュリック将軍はラップランドにあるフィンランドの財産を破壊せよと何度か発令した。10月6日の命令では、攻撃目標を軍事設備や軍事的に重要な場所に限定するという厳命が発せられた。10月8日、トルニオとケミ川地域での戦果が明らかになると、ドイツ軍はケミの工場地域を標的とした爆破攻撃をしかけ、大きな損失を強いた[44]。翌10月9日に破壊命令の対象が病院を除く全ての公的建物に拡大された[45]。10月13日、フィンランド北部のユリトルニオからロヴァニエミの北北西約20kmにある小村シネッタ経由でソダンキュラと結ぶ線から北は、納屋や倉庫を含めて雨露をしのげる建物をすべて破壊するよう命が下った(病院と教会を除く)。追撃してくる敵軍に建物を使用させまいとしたドイツ軍の視点も、フィンランド軍の視点では兵員の多くに常にテントを携行させ野営しており、建造物は不用だった[45]。
ドイツ軍の撤退中、ロタール・レンデュリック将軍はロヴァニエミの戦いで焦土作戦を行った。ドイツ軍ははじめ公的建物に集中して攻撃したが、火が燃え広がり多くの建物を破壊した。ドイツ軍は消火に失敗、10月14日にロヴァニエミ駅で弾薬を積載した列車が爆発、木造家屋が多いロヴァニエミの町に延焼した。ドイツ軍は最終的に2日後の10月16日、ロヴァニエミをフィンランド軍に明け渡した[46]。ドイツ軍がその後も焦土作戦を行った結果、住宅の40から47%が破壊され、ロヴァニエミの街、サヴコスキとエノンテキオの村は燃え尽きた。ソダンキュラ、ムオニオ、コラリ、サッラ、ペッロの村では建物の3分の2と675本の橋が落ち、全ての幹線道路が爆破され、電話回線3700 km分が不通になった。
ロヴァニエミ焦土作戦による損害は1945年時点の価値で約3億ドルと見積もられ、10万人の住民が難民となり[要出典]、戦後の復興の課題となった。終戦後にレンデュリックは戦争犯罪人とされ、ラップランドの焦土作戦に関する容疑は無罪とされたものの懲役20年を宣告された。レンデュリックは6年後に釈放された[要出典]。
両軍の損害は限定的であった。フィンランド軍は戦死774名、行方不明262名、負傷約3千名[47]でドイツ軍は戦死1200名、負傷2千名、捕虜1300名だった。ドイツ軍の捕虜はフィンランドとソ連の停戦協定に基づき、ソ連に引き渡された[48]。ドイツが設置した大量の地雷により終戦から数十年間にわたって多くの平民が死傷し、その後除雷活動でも100人近くが死亡した。ドイツ人兵士と婚約したかドイツ軍で働いていたフィンランド人女性数百人がドイツ軍とともにフィンランドを離れた[52]。
フィンランドは5年にわたる3度の戦争で約9万人を戦死で失い、負傷者は18万6000人に上ったが、一般市民の犠牲者は数値上は比較的少なめの約1200人であった。だがフィンランドにとって人口の2,3%[疑問点 ]が失われたことは重大な損失であった[53]。
注
出典
- ^ a b Elfvengren, Eero (2005). “Lapin sota ja sen tuhot”. In Leskinen, Jari; Juutilainen, Antti (フィンランド語). Jatkosodan pikkujättiläinen (1st ed.). Werner Söderström Osakeyhtiö. pp. 1124–1149. ISBN 978-951-0-28690-6
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- ^ ウェブサイトに掲載した RealAudio 形式の音声ファイル集[49][50][51]。
- ^ 『フィンランド現代政治史』早稲田大学出版部、28頁。
固有名詞の分類
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