ヤフヤ・ゴルモハマディー ヤフヤ・ゴルモハマディーの概要

ヤフヤ・ゴルモハマディー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 14:45 UTC 版)

ヤフヤ・ゴルモハマディー
ゴルモハマディー (2020年)
名前
本名 ヤフヤー・ゴルモハンマディー
ペルシア語 يحيى گل محمدى
基本情報
国籍 イラン
生年月日 (1971-03-19) 1971年3月19日(53歳)
出身地 マフムーダーバード
身長 178cm
体重 75kg
選手情報
ポジション CB (引退)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989–1991 トラクター
1991–1995 プーラー
1995–1999 ペルセポリス
1999–2002 フーラード 41 (6)
2002–2005 ペルセポリス 63 (2)
2005–2008 サバー 63 (7)
代表歴2
2002  イランU-23 9 (1)
1993–2006  イラン 74 (5)
監督歴
2008 サバー
2008–2010 タルビヤート・ヤズド
2010–2011 ナサージー
2012 サバー
2012–2013 ペルセポリス
2013-2014 ナフト・テヘラン
2014-2016 ゾーブ・アーハン
2016 オキシン
2017-2018 トラクター
2018-2020 シャフリ・ホドロ
2020-2024 ペルセポリス
獲得メダル
イラン
アジア競技大会
2002 サッカー競技
1. 国内リーグ戦に限る。2009年5月8日現在。
2. 2006年9月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

選手以前

彼は1971年3月19日にマーザンダラーン州にある都市マフムーダーバードで生まれた。彼は幼少期からその才能を開花させ、プロサッカー選手を目指すことになった。

選手経歴

クラブ

ヤフヤ・ゴルモハマディーはプロサッカー選手としてのキャリアをペルセポリスで開始した。彼は1989年のトラークトゥール・サージー戦でプロサッカー選手として初出場を果たした。2年後、彼はプーラーへと移籍した。プーラーでは4年間プレーし、その後1995年より再びペルセポリスでプレーした。1999年、彼はアフヴァーズのクラブフーラードに移籍したが、3年後には再びペルセポリスへと復帰した。2005年、ヤフヤはサバー・バッテリーへと移籍、チームメイトとなったイラン代表FWアリ・ダエイの助けもあり、ハズフィー・カップ初優勝を果たしただけでなく、AFCチャンピオンズリーグへと出場することになった[2]。彼は引退を表明した2008年までサバーでプレーした。

イラン代表

彼は冷静な判断力を持ち合わせた頭脳的なディフェンダーとしてイラン代表で活躍した。2002 FIFAワールドカッププレーオフのアイルランド代表との対戦ではアディショナルタイムに得点してチームを勝利に導いた。(得点を決めた2ndレグでは1-0で勝利したものの合計スコア1-2で地区予選敗退)この得点により一躍有名な選手となった[3][4]

2006年6月11日、ゴルモハマディーは2006 FIFAワールドカップ初戦のメキシコ代表戦で得点した(チームは1-3で敗戦)。2試合目となったポルトガル戦ではルイス・フィーゴに対し危険なタックルを行いイエローカードを受けた。ゴルモハマディーはこの試合で怪我を負っており、最終戦のアンゴラ戦には出場できない状態だった。彼は2006年のワールドカップ後にイラン代表からの引退を表明した。彼は国際Aマッチ74試合に出場、5得点を挙げた[5]

ゴルモハマディーは2002年アジア競技大会ではイラン代表に選出され、同大会におけるイラン代表の優勝に貢献した[6]

監督経歴

サバー

モハンマド・ホセイン・ジヤーイーがサバー・バッテリーの監督を解任されると、ゴルモハマディーは後任監督に就任、初めて監督として采配を振ることになった。ゴルモハマディーはリーグ戦10試合を残してサバーをペルセポリスセパハンに続く3位に導いた。これはクラブの歴史上最上位となる順位だった。次シーズンも監督を続けるよう契約交渉を行ったものの、ゴルモハマディーは契約延長を断ったため、フィールーズ・カリーミーが2008年6月に後任監督に就任した。

タルビヤート・ヤズド

2008年7月、ゴルモハマディーはイランサッカーリーグ2部のタルビヤート・ヤズドの監督に就任した。タルビヤートは2008-09シーズンを3連勝と良いスタートを切ったものの最終的には5位でリーグ戦を終え、1部へと昇格は果たせなかった。彼は次のシーズンも指揮をとりチームを3位に導いたが、昇格プレーオフで敗れ昇格は果たせなかった。シーズン終了後、彼はタルビヤートの監督を辞任、ナサージー・マーザンダラーンの監督に就任することとなった。

ナサージー・マーザンダラーン

2010年7月、ゴルモハマディーは彼の地元のクラブであるナサージー・マーザンダラーンの監督に就任した。クラブは2010-11シーズンを4位で終え、1部昇格を逃すことになった。2011年9月にゴルモハマディーは解任された。

ラーフ・アーハン

アリ・ダエイラーフ・アーハンの監督に就任すると、彼はダエイとともにアシスタントコーチに就任した。ヤフヤはダエイとともにジェリコ・ミヤッチのアシスタントコーチを務めたが、サバーから監督復帰要請があり、再びサバーへと戻ることになった。

サバー復帰

サバーの監督を務めていたAbdollah Veisiがペイカーンの監督に就任すると、ゴルモハマディーは再び後任監督に就任した。サバー監督復帰は4年ぶりの出来事となった。ゴルモハマディーは1年契約で監督に就任した。 監督就任後初の試合はペイカーン相手の4-0の勝利で、この勝利でサバーはリーグ首位にたった。サバーは翌週まで首位を守った。サバーはペルセポリスもアウェーのアザディ・スタジアムにおいて2-0で破った。その後もガハル・ザーグロスを1-0で破ったが、ゴルモハマディーは心臓合併症により病院への入院を余儀なくされ、監督も9月24日で退任することになった。9月24日時点におけるサバーの順位は7位だった。

ペルセポリス

2012年9月25日、ペルセポリスはゴルモハマディーがモフセン・アシューリの後任としてマヌエル・ジョゼのアシスタントコーチに就任すると発表した。彼は9月26日に正式にアシスタントコーチとして仕事を始めた。2012年12月7日、ゴルモハマディーはトレーニングキャンプの期間中にジョゼが会長から解任通告を受けると、代行監督に就任した。2012年12月10日、彼は正式に後任監督に就任し、クラブとシーズン終了まで監督を務める契約をかわした[7]。彼はペルセポリスで新しいアシスタントコーチとしてヴィンコ・ベゴヴィッチとカリム・バゲリを指名した。

監督就任後初の試合はハズフィー・カップにおけるマラヴァーンとの対戦で、カリム・アンサリファルドのハットトリックやゴラムレザ・レザイーなどの得点もあり6-0で勝利した[8]。リーグの初采配はサナト・ナフト戦で、2–2で引き分けた。ファジュル・セパーシー戦で2–0と勝利し、ペルセポリスにおいて初白星を挙げた。




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