ムハンマド2世 (ナスル朝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 10:13 UTC 版)
統治政策と遺産
ムハンマド2世は父親によって築かれた初期の国家を着実に強化し、他の勢力、特にカスティーリャとマリーン朝との間で交互に同盟を結び、時には両者が互いに戦うように仕向けることによって領土の独立を守り続けた[14][75]。そして宗教(イスラーム教)、言語(アラビア語)、さらにはロマンス語を話すキリスト教徒の隣人から生き残る上で絶えず存在する脅威を自覚することによって団結し、国家が支配する領域に一体感が生まれた。歴史家のイブン・ハルドゥーンは、これらの結びつきはアサビーヤ、ないしは国家の興亡の基本を成すと考えていた部族の連帯に代わる役目を果たしたと述べている[76]。
ムハンマド2世は行政と軍事制度の改革を推進したナスル朝の真の組織者であった[77]。かなりの量に及ぶムハンマド2世の立法関連の活動には、ナスル朝の王室儀典(rusūmal-mulk)[78]とアブー・アブドゥッラー・ブン・アル=ハキーム(ムハンマド3世の治世にはワズィールとなった)が長官を務めた宮廷書記官(al-kitāba)の制度の確立が含まれている[79]。また、キリスト教徒からナスル朝を防衛するために北アフリカ出身者を採用して構成された軍事集団であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの組織の拡大と制度化をみた。この軍事集団はマリーン朝から追放された一族や部族出身の兵士が多数を占めていた[48]。組織の兵士の一部はグラナダの町に定住してセネーテ(ベルベル人のゼナータ族に因んだ名称)の居住区を確立し[48]、他の一部はロンダとその周辺地域を含むナスル朝領内の西部地域に居住した[63]。これらの者たちは国家から報酬を受け取ったが、一方では定住した地域でしばしば地元住民と衝突した。1280年代初頭にナスル朝がマリーン朝と衝突した際にアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンはナスル朝に忠義を示し続け、同時期にカスティーリャから攻撃を受けた際もナスル朝を防衛した[46]。そして時が経つにつれてナスル朝における最も強力な軍事力を持つ組織となり、ムハンマド2世の治世の終わりには10,000人を擁し、ナスル朝の領内から徴兵された軍隊を凌駕した。アル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの長官であるシャイフ・アル=グザートはナスル朝の政治において影響力のある地位を保持した[80]。ムハンマド2世は自身の治世の異なる時期に、アリー・ブン・アビー・イヤード・アブドゥルハック、ターシュフィーン・ブン・ムウティー、アブドゥルハック・ブン・ラッフ、そしてイブラーヒーム・ブン・ヤフヤーを含む複数の人物をシャイフ・アル=グザートに任命した[81]。
領土面においてムハンマド2世はケサーダやアルカウデテを含むハエン王国(カスティーリャ連合王国を構成する一王国)内のいくつかの拠点を手に入れ、ナスル朝の領域をより強固なものにした[70]。一方では最終的にカスティーリャへ奪われる形でタリファを失い、それ以降タリファは二度とイスラーム教徒の手に戻ることはなかった[60]。アシュキールーラ家による内部の脅威は取り除かれ、ムハンマド2世は繰り返されたマリーン朝の攻撃をうまく退けただけでなく、アル=アンダルスにおけるマリーン朝の領土を奪うことにも成功した[75][82]。さらに領土の防衛のために大規模な防衛施設群の建設計画を主導し、東西にわって戦略的な場所に配置された十分な数に及ぶ一連の施設群を建設した。これらの防衛施設はその後の数世紀にわたってナスル朝の国境防衛の基盤を形成した[83][84][85]。さらにアルカウデテの堀(khandaq)の建設の際には自ら指揮に当たった[86]。また、ムハンマド2世が建設した防衛施設は世襲の領主ではなく宮廷によって任命と交代が行われる軍事総督(qa'id)によって管理されていたため、王権の強化にも役立った[87]。これらは大抵において山岳部などの到達が困難な場所に存在し、大きな犠牲を要する包囲戦によってのみ征服するか破壊することが可能であった[88]。
ムハンマド2世はナスル朝におけるワズィール(宰相)の重要性を高めた。ムハンマド2世にとって信頼のおける協力者となったアブー・スルターン・アズィーズ・ブン・アリー・ブン・アル=ムニイム・アル=ダーニーがその長い治世における唯一のワズィールであった。アブー・スルターン・アズィーズはマリーン朝に対するムハンマド2世の大使を務め、いくつかの軍事作戦を指揮し、数多くの王室の文書に共同で署名した[89]。また、ムハンマド2世はアルハンブラ宮殿を拡張し、主に父親によって建設された要塞とその関連施設が大部分を占めていた場所に徐々に宮殿を建設していった[90]。父親が手掛けていた王族用の領域を囲む壁や多数の居住用の建物、さらには浴場の建設を進めた[91]。初期のナスル朝におけるアルハンブラ宮殿の各部分の建築年代は後のイスラーム教徒もしくはキリスト教徒の支配者たちによる変更や修復が加えられたために必ずしも明確ではないものの[90]、ムハンマド2世が今日のサン・フランシスコ修道院の元となる宮殿とヘネラリフェのダール・アル=マムラカ・アル=サイーダの原型となる建物を建設したことは確実とみられている[91]。同様にムハンマド2世は貴婦人の塔(Torre de las Damas、息子のムハンマド3世によって建てられた今日のパルタル宮に位置する)と、くちばしの塔(Torre de los Picos)を建設した[92]。
対外的にはムハンマド2世はキリスト教世界のヨーロッパ、特にジェノヴァとピサから訪れるイタリアの貿易業者との交易の拡大を追求した[93]。1279年4月18日にはジェノヴァの大使と条約を締結し、ジェノヴァと同盟を結んでいない他のイスラーム勢力との対立が起きた際にナスル朝に船舶を供給する見返りに、6.5%という特に低い税率でナスル朝の産品を輸出し、領内に商館を設置する権利を与えた[94]。
ムハンマド2世は、文字通り「イスラーム法学者」を意味するアル=ファキーフの通り名によって知られているものの、この言葉は「賢者」としても理解でき、自身の教育水準の高さだけではなく、学者や詩人とともに過ごす環境へのムハンマド2世の好みも反映している。同時代に生きたカスティーリャ王アルフォンソ10世と同様に、ムハンマド2世は詩を書き(イブン・アル=ハティーブによれば相当な水準の詩人であった)、宮廷において数多くの文化活動を促進した[77][81]。また、学識のある人々、特にキリスト教徒によって征服された地域からイスラーム教徒の科学者を招くことでアルフォンソ10世に対抗した[95]。ムハンマド2世が宮廷に迎え入れた人物の中には数学者で医師のムハンマド・アッ=リクーティーや天文学者で数学者のイブン・アッ=ラッカーム(アルフォンソ10世から改宗してキリスト教徒の領内に留まるのであれば多額の報酬を与えると持ちかけられていたにもかかわらずグラナダへ移住した)がいた[96][97]。スペインの歴史家のアナ・イサベル・カラスコ・マンチャドは次のように記している。「アル=ファキーフはアンダルシアの統治者の中では珍しい通り名である。これはファキーフの活動と重なり合う知的活動の実践と信仰、さらには公正さと法的規範とのつながりを通してファキーフへの賛意を表したムハンマドの政治的人格を強調している」[77]。
注釈
出典
- ^ Rubiera Mata 2008, p. 293.
- ^ a b Boloix Gallardo 2017, p. 165.
- ^ a b c Vidal Castro: Muhammad II.
- ^ Boloix Gallardo 2017, p. 164.
- ^ Harvey 1992, pp. 28–29.
- ^ Boloix Gallardo 2017, p. 38.
- ^ Boloix Gallardo 2017, p. 39.
- ^ a b Harvey 1992, pp. 39–40.
- ^ Harvey 1992, p. 33.
- ^ Boloix Gallardo 2017, p. 166.
- ^ a b Fernández-Puertas 1997, pp. 2–3.
- ^ a b Kennedy 2014, p. 279.
- ^ Arié 1973, p. 206.
- ^ a b c Kennedy 2014, p. 280.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 11.
- ^ O'Callaghan 2013, p. 456.
- ^ Kennedy 2014, p. 281.
- ^ a b Carrasco Manchado 2009, p. 401.
- ^ a b c d Harvey 1992, p. 151.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 3.
- ^ Harvey 1992, pp. 38–39.
- ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 65.
- ^ a b c d e Harvey 1992, p. 158.
- ^ Harvey 1992, p. 153.
- ^ a b c Kennedy 2014, p. 284.
- ^ a b c d e Harvey 1992, p. 154.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 62–63.
- ^ a b c Arié 1973, p. 70.
- ^ Harvey 1992, pp. 155–156.
- ^ Harvey 1992, pp. 156–157.
- ^ a b c d Harvey 1992, p. 157.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 68.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 68–69.
- ^ a b O'Callaghan 2011, pp. 69–70.
- ^ Ibn Khaldun 1851, p. 288, also in Wikimedia Commons
- ^ Ibn Khaldun 1856, p. 94.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 69.
- ^ a b Ibn Khaldun 1856, p. 92.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 70.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 72–73.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 73–74.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 74.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 76.
- ^ Fernández-Puertas 1997, p. 2.
- ^ Harvey 1992, pp. 158–159.
- ^ a b c d e Harvey 1992, p. 159.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 78.
- ^ a b c Kennedy 2014, p. 282.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 81.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 82.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 83.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 85.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 86.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 89.
- ^ a b c Harvey 1992, p. 160.
- ^ Harvey 1992, pp. 159–160.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 97–98.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 101.
- ^ a b Harvey 1992, pp. 161–162.
- ^ a b c Kennedy 2014, pp. 284–285.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 103.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 112.
- ^ a b c Harvey 1992, p. 162.
- ^ a b c d O'Callaghan 2011, p. 113.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 114.
- ^ a b c d e Harvey 1992, p. 163.
- ^ O'Callaghan 2011, pp. 114–115.
- ^ O'Callaghan 2011, p. 115.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 116.
- ^ a b c O'Callaghan 2011, p. 118.
- ^ a b Latham & Fernández-Puertas 1993, p. 1022.
- ^ a b O'Callaghan 2011, p. 117.
- ^ Harvey 1992, pp. 163, 166.
- ^ Kennedy 2014, p. 285.
- ^ a b Catlos 2018, p. 341.
- ^ Harvey 1992, pp. 163–164.
- ^ a b c Carrasco Manchado 2009, p. 402.
- ^ Carrasco Manchado 2009, p. 429.
- ^ Carrasco Manchado 2009, p. 439.
- ^ Kennedy 2014, pp. 282–283.
- ^ a b Arié 1973, p. 240.
- ^ Carrasco Manchado 2009, p. 403.
- ^ Kennedy 2014, p. 283.
- ^ Arié 1973, p. 230.
- ^ Albarrán 2018, pp. 45–47.
- ^ Fernández-Puertas & Jones 1997, p. 170.
- ^ Albarrán 2018, pp. 46–47.
- ^ Albarrán 2018, pp. 45–46.
- ^ Arié 1973, p. 306.
- ^ a b Cabanelas Rodríguez 1992, p. 129.
- ^ a b Fernández-Puertas & Jones 1997, p. 234.
- ^ Arié 1973, p. 463.
- ^ Harvey 1992, p. 161.
- ^ Arié 1973, pp. 360–361.
- ^ Vernet & Samsó 1996, p. 272.
- ^ Vernet & Samsó 1996, p. 271.
- ^ Arié 1973, p. 429.
- ムハンマド2世 (ナスル朝)のページへのリンク