ベラクルスの戦い (1838年)
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戦闘の後
サン・フアン・ウルアとベラクルスでの2度にわたる敗北はメキシコ政府を紛争の交渉再開へと誘導した。 特に、フランスは立場が強くなるにつれ、要求を増大させなかったからである。 メキシコ軍はベラクルスから退避し、同市はブスタマンテ政権の施政下に置かれたままであり、 その間フランス軍も要塞に駐留した。 イギリスは交渉過程の円滑化のために仲介を引き受け、メキシコ湾の北アメリカ戦隊に発送し[5]、w:Richard Pakenham駐アメリカ合衆国大使が艦隊とともにやってきた[6]。 ついに1839年3月15日、講和条約が調印され、それによりメキシコ政府は折れた。60万ペソをメキシコ在留のフランス人が一層の身柄の保護を受けるために支払うことになった。
途中24人が黄熱病で死亡する中、戦隊は1839年8月15日にブレストに帰還した。ボダンは海軍中将に昇進した。
サン・ファン・ウルアの陥落は世界を驚かせた。 とりわけロブ船長のもと Satellite(en)から中立の観察者でUSS レヴァント(Levant)はフランスの砲撃の効果を報じている。 ウェリントン公はしばしば議会で、海軍が強固な要塞を圧倒した、歴史上記録された唯一の事例だと議会で発言している[note 1]。
フランスの成功は新しく導入されたペクサン砲の使用によるところがあり、フリゲートは7,771発砲撃したが、そのうちペクサン法砲の弾丸は117発だけであった。臼砲艦も302発の臼砲を打ちメキシコの弾薬の備蓄の破壊に貢献した。アメリカ合衆国の観察者w:David Farragutは要塞における弾丸の効果を報告している。
この戦闘はまた作戦における伝統的な軍艦を補助するための汽船の有用性を確認するのに貢献した。それら100馬力のエンジンを取り付けただけの汽船は効率よくフリゲートを最適な砲撃位置につけた。 フランス海軍ではすでに1830年のアルジェリア侵略の際にこれらの役目に蒸気船を使用していた。
メキシコでは、戦争は政治的な状況に衝撃を与えた。かつてテキサス革命で信用を失っていたサンタ・アンナは反撃の失敗で英雄になった。彼はその時に決死の戦いを挑み重傷を負った。左足は12月6日に切断された。 彼の戦闘の説明は彼の人気を高め、彼の左足は軍礼を以って埋葬された。紛争の原因となっていた政治的な不安定性が促進され、サンタ・アンナは1839年3月20日にクーデターを起こし権力を奪取した。
フランスでは遠征は2人の軍人を特進させた。ナポレオン戦争の頃のベテランのボダンとルイ・フィリップの三男で弱冠20歳のジョアンヴィル公であり、公は砲撃時には「クレオール」の指揮官であり、ベラクルス襲撃では中心部隊を指揮していた。ジョアンヴィルは英雄となり、彼はその威信を蒸気機関のような技術革新の促進に使用した。ジョアンヴィルは「カピターヌ・ド・ヴェソー(Capitaine de vaisseau)」の階級に昇格しレジオンドヌール勲章シュバリエを授与された。
フランス軍が使用した戦略は、蒸気機関と弾丸が多用される、クリミア戦争の前奏曲であった。
ノート
- ^ Which was inexact, as instances of forts reduced to silence by naval forces were recorded in the 18th century.
参照
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