ファーティマ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/16 01:03 UTC 版)
参考文献
- 私市正年 著「第3章 西アラブ世界の展開」、佐藤次高編 編『西アジア史 1:アラブ』 第8巻、山川出版社〈新版 世界各国史〉、2002年、186-255頁。ISBN 4-634-41380-9。
- 三浦徹 著「第4章 東アラブ世界の変容」、佐藤次高編 編『西アジア史 1:アラブ』 第8巻、山川出版社〈新版 世界各国史〉、2002年、256-328頁。ISBN 4-634-41380-9。
- ヒッティ, フィリップ・K 著、岩永博 訳『アラブの歴史』 下(初版)、講談社〈講談社学術文庫〉、1983年。ISBN 4-06-158592-4。
- ホーラーニー, アルバート 著、湯川武、阿久津正幸 訳『アラブの人々の歴史』(初版)第三書館、2003年。ISBN 4-8074-0332-X。
- ルイス, バーナード 著、白須英子 訳『イスラーム世界の二千年:文明の十字路中東全史』(初版)草思社、2001年。ISBN 4-7942-1055-8。
- アミール・アリ『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
注釈
- ^ 910年1月15日にウバイドゥッラーが国家権力を握り、マフディーでありカリフであるとして自身の名でフトバを命じた[4]。
- ^ シチリア島はアグラブ朝の勢力下にあったが、ファーティマ朝のアグラブ朝征服により親ファーティマ朝派ムスリムのうち十二イマーム派の現地指導者がいったんは支配した[7]。けれどもイスマーイール派ではなかったため、ファーティマ朝はイスマーイール派信徒ハサン・ブン・アフマド(ベルベル系クターマ族)を派遣した[7]。このハサンの現地アラブ系住民に対する対応がまずく、912-913年に反乱が起きたが、すぐに鎮圧された[7]。
- ^ ヒッティ (1983)、p.544 では、ジェノバ人が訛って使っていたものとしている。
出典
- ^ 私市 (2002)、pp.204-205.
- ^ a b 私市 (2002)、p.204
- ^ ヒッティ (1983)、pp.530-531.
- ^ a b c 私市 (2002)、p.206
- ^ 私市 (2002)、pp.205-206.
- ^ a b 私市 (2002)、pp.206-207.
- ^ a b c d e 私市 (2002)、p.207
- ^ 私市 (2002)、pp.207-208.
- ^ a b c 私市 (2002)、p.208
- ^ 私市 (2002)、pp.208-209.
- ^ 私市 (2002)、p.209
- ^ a b c d e 三浦 (2002)、p.274
- ^ ヒッティ (1983)、pp.534-535.
- ^ ヒッティ (1983)、p.547
- ^ 三浦 (2002)、p.273
- ^ ヒッティ (1983)、p.534
- ^ a b c d e f ルイス (2001)、p.130
- ^ ホーラーニー (2003)、p.42
- ^ 三浦 (2002)、p.275
- ^ 私市 (2002)、pp.209-210.
- ^ 三浦 (2002)、pp.275, 297.
- ^ 三浦 (2002)、pp.290-291
- ^ a b c d 三浦 (2002)、p.297
- ^ 「世界の都市の物語10 カイロ」牟田口義郎 1992年10月20日第1刷発行(文藝春秋社)p126–137
- ^ 三浦 (2002)、pp.297-298.
- ^ ヒッティ (1983)、p.581
- ^ a b c 三浦 (2002)、p.298
- ^ 三浦 (2002)、p.283
- ^ ヒッティ (1983)、p.550
- ^ ヒッティ (1983)、p.533
- ^ 『西アジア史 1:アラブ』第8巻、佐藤次高編、山川出版社〈新版 世界各国史〉、2002年、付録p.087。ISBN 4-634-41380-9
- ファーティマ朝のページへのリンク