ヒジュラ 語義

ヒジュラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 10:24 UTC 版)

語義

ヒジュラとはアラビア語で「移住」「(鳥などの)渡り、移動」他を意味する語で、主に経済的理由や身の安全を求めるといった何らかの事情によりとある地から別の地、とある国から別の国へと移動することを指す[1][2][3]。また、今までの人間関係を断ち切って新たな人間関係に移ることも指す[4]。このほか、イスラーム用語としての意味は、多神教徒などを意味するシルク英語版の支配にあり、宗教的迫害を受ける恐れのある地から、その心配がない地へ移住することを指す[5]

ヒジュラという単語は一般的には本稿で取り扱うマッカからヤスリブへのムハンマドやムスリムの移住を指すが、615年前後に行われたムスリムのエチオピアへの亡命や、イスラーム教徒の大征服の時代に征服地であるミスルでの戦いに参加することもヒジュラと呼ばれた。また、ムラービト朝においては外部から陣営に加わること、植民地時代のマグリブやインドでは非ムスリムの支配を逃れてムスリム支配地に移住することもヒジュラと呼ばれた[4][6]

史料

本稿で取り扱うヒジュラに限らず、ムハンマドの事績についてはイブン・イスハーク英語版 (704頃 - 767) が記した『マブアス』と『マガーズィー』という著作をイブン・ヒシャーム英語版 (? - 833) がムハンマドの伝記を中心に再編した『預言者ムハンマド伝』にほとんど頼っている[7]。原本となったイブン・イスハークの著作は現存していない[8]。こうした理由から、本稿の記述は基本的に『預言者ムハンマド伝』による。ただし、イブン・ヒシャームが恣意的に削除した部分が多いほか、医王 (2012b)は、伝承者が記されていない情報の入手元に疑問が残されているとしている[9]

背景

西暦600年頃のアラビア半島の地図。

610年ごろにヒラー山にてアッラーの啓示を受けたムハンマドは、614年頃からマッカの市民への宣教を始めた[10]。当初はマッカの市民はムハンマドを嘲笑していたが、信者が増えるにつれ、ムハンマドやムスリムに対して迫害を行い、棄教を迫るようになった[11][12]。615年ごろにはムハンマドの勧めにより100人以上のムスリムが、同じく一神教であるキリスト教徒の王が治めているアクスム王国へ保護を求めて亡命した[注釈 1]。これによって当時のムスリムのほとんどがマッカを去り、ムハンマドの元には少数の成年男子しか残らなかった[13]

619年には、ムハンマドの妻であるハディージャ・ビント・フワイリドと、ムハンマドの叔父でありハーシム家の長としてムハンマドを保護していたアブー・ターリブが死去した[14]。新たにハーシム家の長となったアブー・ラハブ英語版は、当初はムハンマドを保護すると約束していたが、やがて彼は部族の名誉を汚す裏切り者としてムハンマドの庇護を取り消した[15][16][17][注釈 2]。ハーシム家の庇護を失ったムハンマドとムスリムたちへの迫害はますます激しくなっていった[15]。ムハンマドは布教と自らを庇護してくれる人を見つけるためにマッカから60 kmほど東にあるターイフに赴いた。ムハンマドは秘かに現地の有力者に接触して自らを庇護するように要請したが、彼らはこれを断ったうえで、住民に石を投げさせてムハンマドを追い返した[16][19][20]。その後、ムハンマドはナウファル家の家長であるムトイムのジワール(隣人への保護)によってマッカに入ることが出来た[20][注釈 3]

ヤスリブからの巡礼者

620年、ムハンマドはカアバを訪れた各部族の巡礼団の間をめぐって宣教を行っていた。このときムハンマドの教えを聞いてイスラームに改宗した者の中にヤスリブから来たアウス族英語版ハズラジュ族英語版の巡礼団6人がいた。ヤスリブに帰った彼らはイスラームを布教した[15][21]

当時のヤスリブの状況

ヤスリブとは現在のマディーナであり、マッカの北方およそ350 km、紅海からおよそ160 kmほどの内陸に位置している。住民のおよそ三分の一がクライザ族英語版ナディール族英語版カイヌカー族英語版などのユダヤ教徒で、三分の二が多神教徒のアラブ人だった[22][23]。当時のヤスリブではアラブ人の有力部族であるアウス族とハズラジュ族がユダヤ教徒を巻き込んで何十年にもわたる抗争を繰り広げていた[15][22]。国家が存在していなかった当時のアラビアでは、部族の一員が殺害された際には敵対部族を殺害することによって勢力均衡を図る「血の復讐」と呼ばれる制度が形成されており、両部族は復讐の悪循環に陥っていた。そこでヤスリブは平和の回復のため強力な権威を持つ調停者、指導者を必要としていた[15][注釈 4]

第一のアカバの誓い

その翌年である621年の巡礼月、ヤスリブから昨年マッカを訪れて改宗した6人のうち5人を含めた12人の部族代表者がマッカのムハンマドを訪れた[25][26][21]。ムハンマドと彼らはマッカ郊外のアカバの谷間で会見を行った。ウバーダ・ブン・アル=サーミト英語版が語ったところによると、この会見の中で彼らは多神教の崇拝、盗み、姦通、女児殺し[注釈 5]、隣人への中傷などをやめることを誓ったという[28]。この誓いは「第一のアカバの誓い」と呼ばれる[29][注釈 6]。その後、ムハンマドは信頼のおける弟子であるムスアブ・イブン・ウマイル英語版をヤスリブへ送り、新たな信徒の獲得に努めた[27][29]。これは大きな成功をおさめ、ヤスリブではどの家庭においても家族の誰かはムスリムであるという状態になったという[29][注釈 7]。ムスアブは翌年の巡礼時期の直前にマッカに戻り、その成功をムハンマドに報告した[32]

第二のアカバの誓い

622年6月には男性73人、女性2人から成る75人のヤスリブの使節団がムハンマドのもとを訪れた[27]。再びアカバで会見した彼らはムハンマドを神の使徒として認め、武力でムハンマドとイスラームを守ることを誓った[25][33]。これを「戦いの誓い」または「第二のアカバの誓い」という[34][注釈 8]。カアブ・ブン・マーリクが語ったところによると、ムハンマドは彼らの中から各部族の指導者12人を選んだうえで彼らをヤスリブに返した[25][36][注釈 9]。こうして、ハズラジュ族を中心とする改宗者を中心としたヤスリブの住民は、抗争の調停者としてムハンマドを迎えることを決断した[22]


注釈

  1. ^ これは「第一のヒジュラ」とも呼ばれる[13]
  2. ^ この時代のアラビアにおいて、氏族からの保護を失うことは生命の安全すら保障されないことを意味していた[18]
  3. ^ ムトイムがムハンマドにジワールを与えたこと理由について嶋田 (1977)は、ムトイムがムハンマドに好感を抱いており、また、ナウファル家がハーシム家と深い血縁関係にあったためと推測している[20]
  4. ^ 620年にイスラームに改宗した6人は「我々は憎悪と遺恨のために内部分裂している。神はあなたを通して統一してくださるであろう」とムハンマドに語ったという[24]
  5. ^ 当時のアラビアの貧しい家庭には、女児が生まれると、これを間引く習慣があった[27]
  6. ^ この誓いは「婦人の誓い」や「女性の誓い」とも呼ばれる。このように呼ばれる所以について、イブン・イスハーク (2010)の訳注では不明であるとされている一方で[30]小杉 (2002)は、戦闘義務がなかった女性をも拘束する誓いという意味であるとしている[29]
  7. ^ ヤスリブでイスラームが受け入れられた理由について、小杉 (2002)は、ヤスリブにはユダヤ教徒が多く一神教に慣れていたことや、多神教徒の信仰心がマッカに比べてはるかに弱かったためであると推測している[31]
  8. ^ これまでムハンマドは啓示によってどんな迫害にも忍耐を持って耐えるよう命じられていたが、戦闘を許可する旨の啓示が下ったためこの誓いが可能になったとされる[35]
  9. ^ 後藤 (1980a)は、指導者が12人選ばれた理由について、イエス・キリスト十二使徒が意図されたとしている。指導者たちはヤスリブの改宗運動の指導的立場にあった[37]
  10. ^ 夫から引き離されたウンム・サラマは1年もの間、朝から晩まで泣き暮らす日々を送ったという。これを哀れんだ親族によって彼女は移住を許可され、息子と共に移住した[43][42]。なお、その後アブー・サラマは戦死し、ウンマ・サラマはムハンマドの妻となった[39]
  11. ^ この理由についてMuir (1858a)は、ヤスリブが彼を受け入れる準備が整い、また、彼を守るというヤスリブ側の約束が実行されるという保証を得るまで出発を延期したかったためだと推測している[54]
  12. ^ 『預言者ムハンマド伝』では天使ジブリールからの忠告があったとされている[64]

出典

  1. ^ Project, Living Arabic. “The Living Arabic Project - هجرة” (英語). livingarabic.com. 2023年10月18日閲覧。
  2. ^ معنى شرح تفسير كلمة (هجرة)”. almougem.com. 2023年10月18日閲覧。
  3. ^ المعاني : هجرة”. 2023年10月18日閲覧。
  4. ^ a b 日本イスラム協会 1982, p. 317.
  5. ^ 佐藤 2019, pp. 1336, 1351.
  6. ^ 蔀 2018, p. 210.
  7. ^ 医王 2012b, pp. 363, 366, 374.
  8. ^ 医王 2012b, p. 368.
  9. ^ 医王 2012b, pp. 368, 375.
  10. ^ 蔀 2018, pp. 206–207.
  11. ^ 蔀 2018, p. 209.
  12. ^ 中田 2001, pp. 185–186.
  13. ^ a b 蔀 2018, pp. 209–210.
  14. ^ 蔀 2018, p. 212.
  15. ^ a b c d e 中田 2001, p. 187.
  16. ^ a b 小杉 1994, p. 36.
  17. ^ 佐藤 2008, p. 62.
  18. ^ 佐藤 2008, p. 61.
  19. ^ 佐藤 2008, p. 63.
  20. ^ a b c 嶋田 1977, p. 22.
  21. ^ a b 中村 1998, p. 38.
  22. ^ a b c d 蔀 2018, p. 213.
  23. ^ 嶋田 1977, p. 25.
  24. ^ 後藤 1980a, p. 73.
  25. ^ a b c d e f 中田 2001, p. 188.
  26. ^ 後藤 1980a, p. 67.
  27. ^ a b c 佐藤 2008, p. 64.
  28. ^ イブン・イスハーク 2010, pp. 458–459.
  29. ^ a b c d 小杉 2002, p. 88.
  30. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 559.
  31. ^ 小杉 2002, pp. 89–90.
  32. ^ 鈴木 2007, p. 152.
  33. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 484.
  34. ^ a b c d 佐藤 2008, p. 65.
  35. ^ 小杉 2002, p. 89.
  36. ^ イブン・イスハーク 2010, p. 472.
  37. ^ 後藤 1980a, pp. 71–72.
  38. ^ Muir 1858a, p. 243.
  39. ^ a b c 後藤 1980b, p. 152.
  40. ^ a b イブン・イスハーク 2010, p. 503.
  41. ^ 鈴木 2007, p. 154.
  42. ^ a b イブン・イスハーク 2010, p. 504.
  43. ^ 鈴木 2007, pp. 154–155.
  44. ^ 小杉 2002, p. 94.
  45. ^ アームストロング 2017, pp. 16–17.
  46. ^ 中村 1998, p. 39.
  47. ^ Muir 1858a, p. 246.
  48. ^ 鈴木 2007, p. 155.
  49. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 512–514.
  50. ^ 後藤 1980b, p. 153.
  51. ^ Muir 1858a, p. 248.
  52. ^ サルチャム 2011, p. 129.
  53. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 1.
  54. ^ Muir 1858a, pp. 248–249.
  55. ^ a b c d e 鈴木 2007, p. 156.
  56. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 8.
  57. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 3.
  58. ^ a b c サルチャム 2011, p. 131.
  59. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 4–5.
  60. ^ 嶋田 1977, p. 23.
  61. ^ アンサーリー 2011, p. 69.
  62. ^ Watt 1961, p. 90.
  63. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 5.
  64. ^ a b c イブン・イスハーク 2011, p. 6.
  65. ^ a b サルチャム 2011, pp. 133–134.
  66. ^ a b c イブン・イスハーク 2011, p. 10.
  67. ^ a b Watt 1961, p. 91.
  68. ^ Muir 1858a, p. 255.
  69. ^ a b c 鈴木 2007, p. 157.
  70. ^ a b c d サルチャム 2011, p. 134.
  71. ^ イブン・イスハーク 2011, pp. 10–11.
  72. ^ サルチャム 2011, pp. 134–135.
  73. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 583.
  74. ^ 小杉 2002, pp. 96–97.
  75. ^ アンサーリー 2011, p. 70.
  76. ^ a b c サルチャム 2011, p. 136.
  77. ^ Muir 1858a, p. 259.
  78. ^ 後藤 1980b, p. 155.
  79. ^ a b イブン・イスハーク 2011, p. 17.
  80. ^ a b c d 佐藤 2008, p. 66.
  81. ^ 医王 2012a, p. 199.
  82. ^ a b デルカンブル 2003, p. 66.
  83. ^ イブン・イスハーク 2011, p. 18.
  84. ^ Muir 1858b, pp. 5–6.
  85. ^ Muir 1858b, p. 6.
  86. ^ Muir 1858b, p. 8.
  87. ^ 鈴木 2007, p. 159.
  88. ^ 小杉 2002, p. 98.
  89. ^ 佐藤 2008, p. 67.
  90. ^ a b c d 蔀 2018, p. 215.
  91. ^ 後藤 2017, p. 87.
  92. ^ a b アームストロング 2017, p. 18.
  93. ^ 小杉 1994, p. 37.





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