ハーフンガー
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参考文献
- 札奇斯欽 Jagchid ・Sechin 『我所知道的徳王和當時的内蒙古(中国語版)』 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 1985年
- 内蒙古社会科学院歴史研究所編 『蒙古族通史(中国語版)』 民族出版社 2001年
- 宋永毅(松田州二訳) 『毛沢東の文革大虐殺』 原書房
- ^ 内モンゴル自治運動は早くも1930年代からデムチュクドンロブの主導下で行われていた。同じ内モンゴルの一部であるホルチンなどの東モンゴル地方が満州事変の後、満州国の一部(興安総省と称す)に帰属させられて、旧日本軍の支配下では民族独立運動は殆ど不可能であり、コミンテルンと関りのある内モンゴル人民革命党の指導下で秘密裏に進めるしかできなかったのである。 一方、影響力はもっと大きかったデムチュクドンロブが漢民族移民による草原地帯の農耕化に強く反対するため、モンゴル草原の農耕化を推し進めていた傅作義などの地方軍閥との対立を招き、彼の掲げていた内モンゴル自治運動も傅作義の地方軍閥に妨害されたほか、盧溝橋事件の後に内モンゴルを占領した日本軍にも牽制されていたなどの要因で、ついに遂行できなかった。デムチュクドンロブもモンゴル統一の夢を持っていたが、ソビエトの影響で、外モンゴルが共産化されたことに抵抗があったため、1949年にウランバートルへ亡命する前に、民族統合運動については、外モンゴルと殆ど関ったことがなかった。彼に主導された内モンゴル自治独立運動もハーフンガーの行っていたモンゴル統合運動と同じな宿命に帰した。 ここで言う「東西内モンゴル自治運動」は西モンゴルの地域を含めるが、デムチュクドンロブの自治運動と違い、ウランフに代表された中国共産派のことである。
- ^ 『内蒙民族解放之道―アムガラン』1947年10月内蒙自治報
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