ナッソー襲撃 (1703年) ナッソー襲撃 (1703年)の概要

ナッソー襲撃 (1703年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:09 UTC 版)

ナッソー襲撃

ニュープロビデンス島周辺の地図、1803年作。
戦争スペイン継承戦争
年月日1703年10月
場所ニュープロビデンス島
結果:フランスとスペインの勝利
交戦勢力
フランス王国
スペイン王国
イングランド王国
指導者・指揮官
ブラス・モレノ・デ・モンドラゴン(Blas Moreno de Mondragón
クロード・ル・シェネー(Claude Le Chesnaye
エリス・ライトウッド(Ellis Lightwood(捕虜)
戦力
フリゲート2隻
300-400人
300人
損害
平民100人

襲撃

サンティアーゴ・デ・クーバサン=ドマング植民地の首脳部はナッソーを目の上のたん瘤と見なし、1703年10月にスペイン兵士とフランスのバッカニアフリゲート2隻に乗せてナッソーへ派遣した[1]。彼らはナッソーで100人以上を殺害、80から100人を捕虜にし、大砲22門を鹵獲、要塞を破壊した後、捕虜と拿捕した船13隻を戦利品としてサンティアーゴ・デ・クーバへ連れて戻った[2]。捕虜にはナッソー総督のエリス・ライトウッドも含まれた[1][2]

その後

イングランド人住民は危険が去るまで森に隠れたが、いざ戻ると島全体が廃墟と化したため、ほかの集落へ移住した。イングランドはニュープロビデンス島での出来事を顧みず、襲撃について全く知らなかった。ナッソー総督の後任としてエドワード・バーチが任命されたが、彼がナッソーに到着したときにはそれが放棄された後であったため、彼は委任状を開けることなく帰国せざるを得なかった[5]

襲撃は1706年に再度行われ、その結果としてニュープロビデンス島に残ったのは間に合わせの家に住む27世帯のみとなった。500人に満たない住民はその後も襲撃に悩まされ、貿易も減少、イングランドからの後任の総督やほかの援助もなかった。バーチは住民が「裸を遮蔽する服」もないのを見ると、委任状も開けずに去った[4][6]

1686年にバハマに着て植民地政府に就職したジョン・グレイブズ(John Graves)は1706年にニュープロビデンス島の残り少ない生還者が「小さな家に住み、襲撃されたら森で身を守る」と記述した[4]


  1. ^ a b c d Marley (2005), p. 7.
  2. ^ a b c d e Marley (1998), p. 226.
  3. ^ a b Albury, p. 55.
  4. ^ a b c Craton & Saunders, p. 103.
  5. ^ a b Sale, Psalmanazar & Bower, p. 290.
  6. ^ Oldmixon, p. 21.


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