アジアーゴ 名称

アジアーゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:52 UTC 版)

名称

歴史的にはドイツ語系のチンブロ語が話された地域である。イタリア語以外の言語では以下の名称を持つ。

日本語文献では「アジアーゴ」のほか、「アジアゴ」[4]とも表記される。

地理

位置・広がり

ヴィチェンツァ県北端、アジアーゴ高原(セッテ・コムーニ)に位置するコムーネで、北にトレンティーノ=アルト・アディジェ州に接する。おおむねT字型の市域の面積は162.99km2に及び、これはヴィチェンツァ県は最も広い。市域の北部は山岳・高原地帯が広がっている。

アジアーゴの中心市街は市域南部にあり、県都ヴィチェンツァの北約37km、トレントの南東約37km、州都ヴェネツィアの北西約79kmに位置する[5]

ヴィチェンツァ県概略図

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のTNはトレント自治県トレンティーノ=アルト・アディジェ州)所属を示す。

歴史

古代・中世

アジアーゴの市庁舎に掲げられた、7つのコムーネの紋章

この地域に最初に人類が居住するようになったのは、旧石器時代中石器時代にさかのぼる。ローマ時代以前にはすでに定住が見られた。

アジアーゴ高原の7つの都市(セッテ・コムーニ)は、1310年に同盟を結んだ。アジアーゴは同盟の中心地であった。セッテ・コムーニは5世紀にわたり自治を行った。

ナポレオン戦争によりフランスが北イタリアを占領すると、1807年にセッテ・コムーニの自治も失われた。

近代・現代

アジアーゴ高原の戦場

第一次世界大戦では、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であった南チロル(現在のトレンティーノ=アルト・アディジェ自治州)との国境にあたるアジアーゴ高原はイタリア戦線の戦場となった。当初は国境線に沿った塹壕をめぐり、膠着した戦いが繰り広げられた。

1916年5月、オーストリア軍はアジアーゴ高原の突破を図って攻勢をかけた。激しい砲撃により、アジアーゴの市街地も破壊された。1か月に及ぶこの戦いはオーストリア軍の敗退に終わるが、両軍合わせて2万7000人の戦死者を出した。その後も、国境付近のオルティガーラ山を巡るオルティガーラ山の戦い(1917年6月)などが繰り広げられた。

第一次世界大戦の終結後、市街地の再建が行われるとともに、戦没者の遺骨を収拾して記念碑(納骨堂)が作られた。




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