アクエンアテン 人物

アクエンアテン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 02:24 UTC 版)

人物

父はアメンホテプ3世、母は正妃ティイといわれる。

アクエンアテンの像は指が異常に長い、顎が尖る、脂肪の付き方が不自然であるなどマルファン症候群の特徴的な症状を持つように見受けられ、生前から奇形だったという説もあるが、王家の血筋ではない王妃ネフェルティティや家臣たちも同様の形式で描かれることから、これはアマルナ美術特有の高貴な人々の表現形態であったと見るのが妥当である。また、遺伝子調査による王族のミイラ特定に伴い、この表現は、王家の人々の容姿の特徴をかなり誇張したものであることも分かってきている。病弱であったとする証拠は特に無く、かつては憶測のままだったが、2010年の本人のミイラ特定により、今後の研究が待たれる状態となっている。

アクエンアテンは宗教改革に没頭し、対外政策を軽視した。この原因としてアクエンアテンが平和主義者であったからだという説が存在する[要出典]

アマルナの公文書保管所から発見された粘土板に記された書簡である、アマルナ文書からは、外国の王やエジプトの領地の支配者たちからエジプト国王に黄金や補給物資の救援を訴えていることが書かれている。しかしながら、宗教改革によって発生した経済的負担、あるいは外国における地位の失墜のためにエジプト国内で大きな反乱が起こったという事実はない。このことから、反改革運動は王自身の家族や宮廷人の間でひそかに進行していたものと思われる[2]

アマルナ改革

アクエンアテンと彼の家族がアテンを信仰している姿

彼アクエンアテンの行った改革は、アマルナ改革として有名である。アテン神を崇拝し、治世5年目(前1367年ごろ)にアテン信仰の導入を始めたが、まだ伝統的な神々への崇拝を禁止しなかった。この頃、アテンへ捧げる神殿の他に、従来の神々へ捧げる神殿も建築している。

しかし即位4年目に名前をアメンホテプからアクエンアテンに改名し、即位6年目にはアケトアテンの主要な建築物が完成。王朝発祥の地テーベを放棄し遷都した。

即位9年目に入ると、アクエンアテンは旧来のエジプトの神々を排斥し、アテンが唯一の神であると宗教改革を推し進めた。この改革に関しては、アメン=ラーの力に対抗する王の試みのひとつであったと考えられる。

改革の原因

テーベの守護神および国家神であるアメンを祭る神官勢力がを抑えるほどの強い勢力になったことをアクエンアテンが嫌い、宗教的権力を王権と一本化することを狙ったと考えられる。前者の理由が一般的だが、アクエンアテン自身がアテンを称える詩を執筆している等、単なる政治的理由だけでは説明のつかない事も多く、後者の理由も大きかった事がうかがえる。

宗教史的意義

多神教であった従来のエジプトの宗教を廃し、唯一神アテンのみを祭る世界初の一神教を始めた事が挙げられた。しかし後の研究により、現在ではアクエンアテンが他の神々の存在を積極的に否定しなかったという説がおこり、現在では唯一神教ではなく拝一神教と見なしている学者[3]と、単一神教[4]と見なしている学者がいる。

また、著名な宗教学者のエリアーデは、アクエンアテンの宗教を評し、「実際には二神教であった」としている。なぜならば、彼の宗教ではアテンのみならず、伝統的なエジプト宗教と同じく王たるアクエンアテン自身も神であるとされたからである。

アテンは太陽円盤の形で数多くの手を持っており、通常のエジプト宗教においてこれは多くの民を救う為のものであると解釈されていたにも関わらず、アクエンアテンの宗教では、アテンはアクエンアテンだけの為の神であった。そしてその他の一般の民に対しては、アクエンアテン自身を神として崇拝するよう説いたのである。

その後

アクエンアテンは、後世の人々からは異端者と見なされて、その名は記念碑から削除され、彼がテーベやアケトアテンに造営した建物は破壊された。おそらく、アテン信仰は宮廷や他の幾つかの場所でのみ受け入れられていたと考えられている。

アクエンアテン崩御後、中心地は未だ完成されていないアケトアテンを永久に去り、テーベへ戻った。後に、ホルエムヘブの命令によりアケトアテンの町は破壊され、その石材は他の場所での建設計画のために運び去られた。冒潰され王の名前は碑文から削除された。

また、アテン大神殿は大地に引き倒され、その中にあった聖なる品々も粉々に破壊された。テーベにあったアテンの神殿も同様に解体され、アテン信仰やその憎むべき保護者である王の痕跡を抹消するあらゆる努力がなされた。アケトアテンの残骸は、まもなく風に運ばれた砂で埋まり、その存在は全く偶然に発見されるまで何千年もの間、知られることがなかった。[2]


注釈

  1. ^ 5~6年とする説あり[1]

出典

  1. ^ a b c d 松本 1998, pp. 207–219.
  2. ^ a b Kodai ejiputojin. David, Ann Rosalie., Kondō, Jirō, 1951-, 近藤, 二郎, 1951-. 筑摩書房. (1986). ISBN 4-480-85307-3. OCLC 673002815. https://www.worldcat.org/oclc/673002815 
  3. ^ Montserrat, Dominic, 1964- (2000). Akhenaten : history, fantasy, and ancient Egypt. London: Routledge. ISBN 0-415-18549-1. OCLC 42923652. https://www.worldcat.org/oclc/42923652 
  4. ^ Brewer, Douglas J. (2007). Egypt and the Egyptians. Teeter, Emily. (2nd ed ed.). Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0-521-85150-5. OCLC 64313016. https://www.worldcat.org/oclc/64313016 
  5. ^ Reeves, C. Nicholas. New Light on Kiya from Texts in the British Museum, p.100 The Journal of Egyptian Archaeology, Vol. 74 (1988)
  6. ^ a b Grajetzki, Ancient Egyptian Queens: A Hieroglyphic Dictionary, Golden House Publications, London, 2005, ISBN 978-0-9547218-9-3
  7. ^ The Amarna Succession, pp.14-15
  8. ^ “ツタンカーメン解き明かされた系譜(記事全文)”. ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト. (2010年9月). http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/ 2011年9月閲覧。 
  9. ^ Aidan Dodson, Dyan Hilton: The Complete Royal Families of Ancient Egypt. The American University in Cairo Press, London 2004





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