S-21Aの所長へ
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「カン・ケク・イウ」の記事における「S-21Aの所長へ」の解説
1975年4月、クメール・ルージュが内戦に勝利した後、サンテバルの本部は、特別区のサンテバルと共にプノンペンへ移された。本部は4月以降数ヶ月間、第15局(Office 15)という名で運営されていたが、その後S-21へ改称された。1975年8月15日、プノンペン駅に、第703部隊のIn Lorn(暗号名はナットNat)と共にソン・センから呼び出され、S-21の設立について話し合いがもたれた。(1975年4月にプノンペンがクメール・ルージュの手に落ちてからしばらく、クメール・ルージュの本部はプノンペン駅内に置かれていた。)この時の会合でソン・センは、ナットをS-21の所長に、ドッチをナットの部下にし、ドッチは尋問部長に任命された。この陣容で、1975年10月にS-21は稼動を始めた。実際、ドッチとの関連がS-21の文書に現れだすのは1975年10月からであることが確認されている。ドッチはS-21で働くことには乗り気ではなく、代わりに工業省で働きたいと申し出たが、これは拒否された。ドッチは「義務は義務である」と考え、これ以上不服を申し立てることはせず、S-21で仕事を続けた。尋問部長としてのドッチの主要な仕事は、ロン・ノル政府の施設から集めてきた文書の整理、これらの文書に書かれていた内容に基づいて上司へ報告すること、尋問部のスタッフに対して尋問方法を教育すること、拘留者の自白を上司に報告することの4つであった。この時点で既に、尋問の際には拷問を用いることがドッチに許されていた。ドッチは囚人を殺しはしなかったが、尋問が終われば囚人は殺害されることを知っていた。ドッチは、次の約6ヶ月間、タクマウ市(プノンペンの南側郊外に隣接する町の名前)にあった刑務所と、プノンペン市内に散らばって存在していた尋問センターとの間を行き来していた。S-21A(トゥール・スレン刑務所の正式名称のこと)は1975年の終わりまでにはドッチの管理下に入ったが、ドッチが正式に所長に任命されたのは、1976年3月になってからである(別の資料では、所長になったのは1976年6月と書かれている)。1976年3月、ナットは参謀本部へ異動になったので、代わりにドッチがS-21の所長に任命された。ドッチは、自分の代わりに、チャイ・キム・フオ(Chhay Kim Huor)を所長にするよう上司のソン・センに上申したが拒否されたので。1976年3月からS-21の所長を務めた。同時に、S-21委員会書記にも任命された。S-21委員会のほかのメンバーは、キム・ヴァク(Khim Vakまたはキム・ヴァトKhim Vat、暗号名はホー(Hor)。S-21Aの主要な幹部の1人でドッチの部下。S-21では警備部長だった。プノンペン南にあるPrek Touchの生まれでそこで育った。1966年に10代で革命軍に参加、第11部隊(後に第703d部隊に改称)で働いているときに、戦闘で片目を失った。きわめて規律に厳しい人物で、ミスをしたり間違ったことを言うと殴りつけられたので、部下からは恐れられた。1979年以降の消息は不明である。)とヌン・フイ(Nun Huy、暗号名はフイ・スレ(Huy Sre)。「のっぽのフイ(Tall Fuy)」、「田んぼのフイRice Field Huy」というあだ名でも呼ばれた。S-21には、もう1人ヒム・フイ(Him Huy)という名の人物がいて、それと区別するためにあだ名がついたらしい。「田んぼのフイ」の名は、フイがプレイ・ソー刑務所担当でここに常駐していたこと、プレイ・ソー刑務所はS-21の職員や囚人の食料をまかなうための農場を持っていたことによる。妻もカンボジア共産党員で、S-21の尋問部で不定期に働いていた。1978年11月、2人は逮捕された。)の2人であった。ドッチはホーとは頻繁に会っていたが、フイ・スレとはあまり顔を合わせなかった。これは、後者がプレイ・ソー刑務所(正式にはS-24と呼ばれていた。別の資料ではS-21Dが正式名称であるとも書かれている。)の担当だったからだった。 ドッチはS-21の細かい事務まで監督し、自分自身はもちろん他人にも厳しい所長で、しばしば所員を震えあがらせた。ドッチは妻、2人の子供とともにS-21A付近の家で暮らしていた。ドッチ自身が囚人の殺害に加わったことはないが、時々、チューン・エック(Choeung Ek、プノンペン南西15kmにある小村チューン・エック村近くの中国人墓地に作られた野外の処刑場。1977年の大量粛清のため、S-21A敷地内での処刑が間に合わなくなったので作られた。)へ出かけて処刑の様子を観察していたという。1978年には、「最終計画」というタイトルで、アメリカ、旧ソ連、台湾、ベトナムが陰謀を企てていると示唆する精巧なメモランダムを、これまでの囚人の自白を用いて書き上げた。
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