S-21Aの所長へとは? わかりやすく解説

S-21Aの所長へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 02:19 UTC 版)

カン・ケク・イウ」の記事における「S-21Aの所長へ」の解説

1975年4月クメール・ルージュ内戦勝利した後、サンテバルの本部は、特別区のサンテバルと共にプノンペン移された。本部4月以降数ヶ月間、第15局(Office 15)という名で運営されていたが、その後S-21改称された。1975年8月15日プノンペン駅に、第703部隊のIn Lorn(暗号名ナットNat)と共にソン・センから呼び出されS-21設立について話し合いもたれた。(1975年4月プノンペンクメール・ルージュの手落ちてからしばらく、クメール・ルージュ本部プノンペン駅内に置かれていた。)この時の会合ソン・センは、ナットS-21所長に、ドッチナット部下にし、ドッチ尋問部長任命された。この陣容で、1975年10月S-21稼動始めた実際ドッチとの関連S-21文書現れだすのは1975年10月からであることが確認されている。ドッチS-21で働くことには乗り気ではなく代わりに工業省働きたい申し出たが、これは拒否された。ドッチは「義務義務である」と考えこれ以上不服申し立てることはせず、S-21仕事続けた尋問部長としてのドッチ主要な仕事は、ロン・ノル政府施設から集めてきた文書の整理、これらの文書書かれていた内容基づいて上司報告すること、尋問部のスタッフに対して尋問方法教育すること、拘留者の自白上司報告することの4つであった。この時点で既に、尋問の際には拷問用いることがドッチ許されていた。ドッチ囚人殺しはしなかったが、尋問終われば囚人殺害されることを知っていた。ドッチは、次の約6ヶ月間、タクマウ市(プノンペン南側郊外隣接する町の名前)にあった刑務所と、プノンペン市内散らばって存在していた尋問センターとの間を行き来していた。S-21A(トゥール・スレン刑務所正式名称のこと)は1975年終わりまでにはドッチ管理下に入ったが、ドッチ正式に所長任命されたのは、1976年3月になってからである(別の資料では、所長になったのは1976年6月と書かれている)。1976年3月ナット参謀本部異動になったので、代わりにドッチS-21所長任命された。ドッチは、自分代わりに、チャイ・キム・フオ(Chhay Kim Huor)を所長にするよう上司ソン・セン上申した拒否されたので。1976年3月からS-21所長務めた同時にS-21委員会書記にも任命された。S-21委員会のほかのメンバーは、キム・ヴァク(Khim Vakまたはキム・ヴァトKhim Vat暗号名ホー(Hor)。S-21Aの主要な幹部1人ドッチ部下S-21では警備部長だった。プノンペン南にあるPrek Touch生まれでそこで育った1966年10代革命軍参加第11部隊(後に第703d部隊改称)で働いているときに、戦闘片目失ったきわめて規律厳し人物で、ミスをしたり間違ったことを言うと殴りつけられたので、部下からは恐れられた。1979年以降消息不明である。)とヌン・フイ(Nun Huy暗号名はフイ・スレ(Huy Sre)。「のっぽのフイ(Tall Fuy)」、「田んぼフイRice Field Huy」というあだ名でも呼ばれたS-21には、もう1人ヒム・フイ(Him Huy)という名の人物がいて、それと区別するためにあだ名がついたらしい。「田んぼフイ」の名は、フイがプレイ・ソー刑務所担当でここに常駐していたこと、プレイ・ソー刑務所S-21職員囚人食料まかなうための農場持っていたことによる。妻もカンボジア共産党員で、S-21尋問部で不定期に働いていた。1978年11月2人逮捕された。)の2人であったドッチホーとは頻繁に会っていたが、フイ・スレとはあまり顔を合わせなかった。これは、後者がプレイ・ソー刑務所(正式にS-24呼ばれていた。別の資料ではS-21Dが正式名称であるとも書かれている。)の担当だったからだった。 ドッチS-21の細かい事務まで監督し自分自身はもちろん他人に厳し所長で、しばしば所員震えあがらせた。ドッチは妻、2人の子とともにS-21A付近の家で暮らしていた。ドッチ自身囚人殺害加わったことはないが、時々、チューン・エック(Choeung Ekプノンペン南西15kmにある小村チューン・エック近く中国人墓地作られ野外処刑場1977年大量粛清のため、S-21A敷地内での処刑が間に合わなくなったので作られた。)へ出かけて処刑様子観察していたという。1978年には、「最終計画」というタイトルで、アメリカ旧ソ連台湾ベトナム陰謀企てていると示唆する精巧なメモランダムを、これまでの囚人自白用いて書き上げた

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