PSIの結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 05:27 UTC 版)
社会党から離脱したParas系のシャフリル派は、ハッタ内閣による外交路線を支持して、1948年2月13日、インドネシア社会党(PSI)を結成した。党首となったシャフリルは、スカルノの要請で、インドネシアの独立を欧米諸国に訴えるため、各国を遊説してまわった。 インドネシアの独立達成後、1955年9月に予定されたインドネシア国政史上初めての総選挙に向けて、各勢力が支持を求めて一般大衆への浸透をはかる活動を開始するなかで、シャフリルのPSIも、1952年、バンドンで第1回党大会を開いた。 多くの政党が大衆動員のためのプロパガンダ活動に力を入れたが、PSIは大衆組織を持たず、その活動はもっぱら出版を通じての言論活動に限定していた。独立戦争期からPSIが発行していた雑誌、Siasat、Sikapは、インドネシア(とくにジャワ)の封建制を克服し、西欧志向型の社会改革をすすめ、複数政党制や議会制民主主義を志向しながら経済発展をめざすという主張を掲げた。 こうしたPSIの活動は、多少浮世離れした知識人中心の運動という色彩が濃かったが、同党には植民地時代の高等教育機関やオランダの大学で学んだ政治エリートが多く、新生国家の経済開発を立案できる数少ない人材を有していたため、独立後のイスラーム系のマシュミ首班内閣にも閣僚として登用された。
※この「PSIの結成」の解説は、「インドネシア社会党」の解説の一部です。
「PSIの結成」を含む「インドネシア社会党」の記事については、「インドネシア社会党」の概要を参照ください。
- PSIの結成のページへのリンク