4月の戦闘に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 20:57 UTC 版)
「ファルージャの戦闘」の記事における「4月の戦闘に至る経緯」の解説
ファルージャは有志連合軍による占領以降、アメリカ陸軍やアメリカ海兵隊の部隊が相次いで交代しつつ占領統治を行ってきた。ファルージャではスンナ派住民が多数を占めており、旧政権打倒後の米国の占領統治の拙劣さもあいまって米軍に対する感情は非常によくなかった。特に占領初期の2003年4月に米軍が重機関銃などを常設して基地として使用していた学校に集まった住民に対して発砲し15名以上を銃撃して殺害 したことで反米感情は一層深まっており、地域住民が武装して反米闘争を展開 し、米軍に退去を要求するデモが多発し、デモを鎮圧しようとする米軍と地域住民の間で度々武力衝突が発生、双方に死傷者が多数出ていた。 2004年3月31日、ESS社のトラックを護衛中 の四輪駆動車がファルージャ市内にて襲撃を受けた。車内にいた民間軍事会社ブラックウォーターUSA社のアメリカ人「警備員」(実態は傭兵に例えられることが多い。またイラク側から見れば米軍兵士と区別がつかないとされる)4人は即死した。そして、4名の死体は市中を引きずり回され、ユーフラテス河にかかる橋梁から吊り下げられた。 この事件は燃え盛る車両やその脇に横たわる遺体、橋に吊るされた黒こげの遺体といった衝撃的な映像とともに世界中で報道され、米国内では1993年のソマリア首都モガデシュにおけるブラックホークダウンを彷彿とさせるものであった。米軍は犯人を司直の手に委ねることをファルージャ側に要求したが受け入れられなかった。こうして、アメリカ第1海兵遠征軍を基幹とする連合軍は市街地であるファルージャに対する包囲を含む広範な作戦をアンバール県にて開始した。
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