1990年-1991年
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「BMSスクーデリア・イタリア」の記事における「1990年-1991年」の解説
1990年は続投のチェザリスとベネトンから移籍のエマニュエル・ピロ(開幕2戦はジャンニ・モルビデリを起用)の2台体制で参戦するが、完走もままならずノーポイントに終わる。1991年はエンジンをフォードV8からジャッドV10へスイッチ。前年からのピロとオニクス・グランプリから移籍のJ.J.レートを起用。前半戦は予備予選組に戻されたが、レートはサンマリノGPで3位表彰台を獲得し、ピロはモナコGPで6位入賞を果たす。後半戦は予備予選を免除されたが、結局入賞はこの2回のみに終わった。
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1990年~1991年
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「ニコラ・ラリーニ」の記事における「1990年~1991年」の解説
1990年はフランスのリジェに移籍。コスワースDFRエンジンを搭載のJS33Cは、速さは持たなかったが安定した完走率のあるシャシーであり、この年は16戦全戦で決勝に進出しリタイヤは3回のみと高い決勝完走率であった。決勝最高位は2度の7位と入賞に一歩届かず、この年もポイント獲得は成らなかった。Italian Super Turismoに並行して参戦し、4勝でランキング3位となった。 1991年はF1新規参戦チームであるモデナと契約するが、チーム体制が弱くモデナ・291もメインデザイナーが早々とチームを離れておりマシンは熟成しなかった、7度の予備予選落ち・4度の予選落ち。決勝不進出数ではオゼッラ在籍時以上という結果となったが、同僚のエリック・ヴァン・デ・ポールの1度を大きく上回る5度の決勝進出を果たしている(決勝最高位:7位)。この年並行して参戦したのはItalian Turismoであり、3勝を挙げた。
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1990年~1991年
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「アレックス・カフィ」の記事における「1990年~1991年」の解説
1990年にアロウズに移籍し、第4戦モナコGPで5位に入賞した。入賞は1度きりだったが、非力なマシンでシングルフィニッシュを7度記録し、参戦した14戦のうち、8戦でチームメイトのベテランミケーレ・アルボレートを上回る予選順位を記録した。 1991年はアロウズを買収したフットワークに残留。チームはポルシェV12エンジンを積むことになったが、ポルシェエンジンは非常に重い上にパワーも無く、フットワーク・FA12は全く戦闘力を持たなかった。カフィは開幕から4戦連続予選落ちを喫した。モナコGPの予選では車体が前後に分断される大クラッシュを喫し、幸運にもそこでは軽傷で済んでいたが第5戦カナダGP直前には交通事故で両足を骨折してしまい、夏場の4レースを欠場。第9戦ドイツGPで復帰したが、6戦連続で決勝には進めなかった。後半戦はチームが予備予選の対象とされ、以後第14戦までの6戦中5戦で予備予選不通過と「F1にステップアップして以来最悪のシーズン」と自ら認める散々な年となった。この年決勝に進出したのは、第15戦日本GPとそれに続く最終戦の1991年オーストラリアGPの2レースのみであった。日本GP前にチームは翌年へ向け鈴木亜久里の移籍加入を発表(アルボレートは残留)し、カフィは放出された。
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