1980年代後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 04:25 UTC 版)
「ジャパニーズ・メタル」の記事における「1980年代後期」の解説
1980年代後半は、LOUDNESS、VOW WOWに続いてANTHEMがLAでライブを行い、1987年にFLATBACKERが『E・Z・O』へ名前も音楽性も変えてジーン・シモンズのプロデュースによるアルバム『E・Z・O』で世界デビューし、全米チャート入りを果たした。同年にはVOW WOWの楽曲「DON'T LEAVE ME NOW」が全英シングルチャートのトップ100に3週チャート・インした。そして、聖飢魔IIを脱退したギタリスト大橋隆志も渡米後にアメリカ人と結成した日米混成バンド「Cats In Boots」で1989年に世界デビューを果たすなど、日本発のHR/HMシーンが開花し、ひとつの頂点を極めようとしていた時期であった。 この時期、日本国内のメタルシーンは徐々に失速の兆しを見せていた。1987年、レコード会社移籍をきっかけに44MAGNUMが「ヘヴィメタルなんかもう古い」という理由で「ポストBOØWY」 とも呼べるポップなロック路線への転換を行う。だが、それまでのファンから猛反発を喰らい人気は急降下、結局はバンドそのものが方向性を見失い、1988年に打ち込みの導入に反発したドラムの宮脇“JOE”知史が脱退、その後、立て直せぬままに翌1989年解散。MAKE-UPも1986年にテレビアニメ『聖闘士星矢』の主題歌「ペガサス幻想」でヒットを飛ばしたものの、翌年解散。その一方、この時期には元LAZYの影山ヒロノブがアニメ・特撮の主題歌を数多く手掛ける様になるなど、少なからぬメタル系ミュージシャンが自身の生活と芸能活動の維持のために、メタル系以外への芸域の拡大を模索し始めていた。影山は1990年代以降、一部の楽曲でゴールド・ディスクを獲得したり、ミリオンヒットを飛ばすなど、アニメソングの分野で兄貴分としてのポジションを確立し、ジャンルの牽引者の1人となる。ヘヴィメタル・クイーンと呼ばれた浜田麻里も1989年に「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のリリースを機に、脱ヘヴィメタルを宣言し、転じたJ-POPシーンでブレイクし、1990年代前半まで安定した人気を保つ事となる。 他方で、ANTHEMは1987年にボーカル坂本英三が脱退し、後任に森川之雄が加入、また、この時期から音楽性の幅が広がっていったにも関わらず人気は鈍化傾向で、興行面という意味においての苦戦が続いていた。海外に展開していたFLATBACKER改めE・Z・Oも活動順調とは言い難く、アメリカで苦戦を続けるメンバーは、所属事務所の戦略により隈取を施した“忍者メタル”などという一種のキャラクター路線まで模索を余儀なくされていた。同じく海外進出していたLOUDNESSは1989年にボーカリスト二井原実を解雇し、アメリカ人のマイク・ヴェセーラを起用した。ボーカルが交替したLOUDNESSはアルバム「SOLDIER OF FORTUNE」をリリースする。このアルバムは日本国内のみならず、アメリカ市場においてもセールス的に失敗。ヴェセーラ在籍時の全米ツアーも1度だけと苦境に立たされる事となった。 この1989年には、聖飢魔IIが極悪集大成盤(ベストアルバム)「WORST」を発布し、メタル系バンドとしては初めてオリコンチャートの1位を記録した。また、メタル系バンドとして初めてNHK紅白歌合戦』に選出され「白い奇蹟」を披露したが、「白い奇蹟」はメタル・ナンバーではなくバラード・ナンバーである。
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