1918年以後のロイス家
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「ロイス家」の記事における「1918年以後のロイス家」の解説
1918年のドイツ革命により、2つのロイス侯家は諸侯の身分を失った。このとき、兄系ロイス侯(ロイス=グライツ侯)ハインリヒ24世は重度の障害により統治不能のため、弟系ロイス侯(ロイス=ゲーラ侯)ハインリヒ27世が2つの侯国を統治している状況だった。 1919年12月、ハインリヒ27世はロイス人民州(Volksstaat Reuß)政府との間に協定を結んだ。ロイス家には3400万ライヒスマルク相当と見積もられる財産が残された。弟系ロイス侯家は、居城オステルシュタイン城(Schloss Osterstein、ゲーラのキュッヒェ庭園(Küchengarten)、エーベルスドルフ城(Schloss Ebersdorf)、シュライツとオステルシュタインの貨幣鋳造所と武器貯蔵庫と城内付属図書館、シュライツ城の居住権、および5285haの森などを確保した。兄系ロイス侯家は昔からの居城とブルク(Burgk)の武器貯蔵庫および森林区域、1500haの平地、グライツ城の居住権を確保していた。 1927年に最後の兄系ロイス侯であったハインリヒ24世が死ぬと同時に、兄系ロイス家の男系は絶えた。兄系ロイス侯家の資産は弟系ロイス侯家が受け継ぎ、兄系と弟系に分かれていたロイス家は統合されることとなった。ハインリヒ27世はロイス家全体の家長となり、名目上のロイス侯となった。翌1928年にハインリヒ27世が死ぬと、その息子のハインリヒ45世がロイス家家長となった。ハインリヒ45世は国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党員であり、1944年までドイツ国防軍に所属していたが、敵国であるイギリスのパスポートを持ちイギリスの市民権を取得していたという理由から、ナチ党政府による公用徴収を免れ得なかった。1945年、ハインリヒ45世はソ連占領軍に拉致されて消息不明となった。おそらくブーヘンヴァルト強制収容所に抑留されて死んだと考えられている。ハインリヒ45世に子供はなく、ロイス=シュライツ家最後の男子となった。ハインリヒ45世の資産は1948年にソ連占領当局によってすべて接収された。 ロイス家家長は、ハインリヒ45世に後継指名されていたロイス=ケストリッツ家(Reuß-Köstritz)の当主ハインリヒ4世(1919年 - 2012年)が継承した。ロイス=ケストリッツ家は、1692年にロイス=シュライツ家から分かれた統治者家門でない分家で、ロイス家の諸家の中で存続する唯一の系統である。同家もまた複数の分枝に分かれ、非常に多くの男系子孫に恵まれており、断絶することは当面のあいだ無いと見られている。ハインリヒ4世は、ロイス=ケストリッツ家が1822年より居城とするオーストリア・ニーダーエスターライヒ州のエルンストブルンの城館(Schloss Ernstbrunn)に家族とともに住み続けた。ハインリヒ4世の死後は、長男のハインリヒ14世(1955年 - )が家長の地位を継承している。 なお、ハインリヒ45世は、ロイス=ケストリッツ家分枝のハインリヒ1世(1910年 - 1982年)を1935年に養子に迎えており、さらにハインリヒ1世と自分の姪ヴォイツラヴァ・フェオドラ・ツー・メクレンブルク(英語版)(1918年 - 2019年)を結婚させていた。1990年代初頭、ヴォイツラヴァ・フェオドラ・ツー・メクレンブルクは、ソ連による占領時に接収されたロイス家の財産は自分の長男ハインリヒ8世(1944年 - )に返還されるべきだと主張した。
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