1765年印紙法への反対
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「ジョン・アダムズ」の記事における「1765年印紙法への反対」の解説
イギリスの議会がイギリス軍の戦争で負った負債とアメリカ植民地に軍隊を駐屯させておく費用とを賄わせるために、1765年印紙法を植民地に押しつけた時、アダムズはその反対者として初めて著名な者になった。アダムズが後に述べているところでは、ボストンの牧師ジョナサン・メイヒューがローマ人への手紙第13を解釈して暴動の原理を説明している説教を何度も出版されたもので、民衆の抵抗に火が付けられた。 1765年、アダムズはブレイントリーの住人からマサチューセッツ議会に送った代議員に宛てて送られた指示書を起稿した。この指示書は他の町がその代議員に送った指示書のモデルにされた。同年8月、アダムズは「ボストン・ガゼット」紙に4つの著名な記事を匿名で寄稿した(1768年に「ロンドン・クロニクル」紙で「アメリカの真の感情」として再掲載され、「法令と封建法に関する論文」とも呼ばれる)。この中でアダムズの先祖であるピューリタンがニューイングランドにもたらしたプロテスタントの概念と印紙法に対する抵抗の裏にある概念との間には繋がりがあることを示唆した。印紙法に対する植民地の反対は、印紙法があらゆるイギリス人に保証されており、あらゆる自由人が受けるに値する2つの基本権利をアメリカの植民地人から奪うことになるからであると説明した。すなわち同意によって課税される権利と、対等な陪審員によって裁判を受ける権利である。 「ブレイントリー指示書」は植民地の権利と自由の簡潔で率直な弁護であり、論文は政治教育における随筆だった。 1765年12月、アダムズは知事や議員の前で演説を行い、マサチューセッツはイギリスの議会に代表を送っていないので、印紙法に同意していないという根拠で同法を無効と宣言した。
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