黄金期と成功の継続 (1975-2000)
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「クルブ・オリンピア」の記事における「黄金期と成功の継続 (1975-2000)」の解説
1975年にオスバルド・ドミンゲス・ディブが新会長に選出されたことはクラブ史の節目の1つである。ディブ会長はクビージャを新監督に招聘し、1979年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)を破って初優勝を飾った。アスンシオンで行なわれたファーストレグで2-0で勝利したため、ブエノスアイレスのラ・ボンボネーラで行なわれたセカンドレグには守備的な姿勢で臨むことができ、計算通りのスコアレスドローで優勝を決めた。同年のコパ・インテラメリカーナではデポルティーボ・FAS(エルサルバドル)を2試合合計8-3で破って優勝し、またインターコンチネンタルカップではUEFAチャンピオンズカップ準優勝のマルメFF(スウェーデン)を2試合合計3-1で破って優勝した。UEFAチャンピオンズカップで優勝したノッティンガム・フォレスト(イングランド)がインターコンチネンタルカップ出場を拒否していたことからマルメが出場していた。この時の優勝メンバーにはストライカーのエバリスト・イサーシ、キーパーのエベル・ウーゴ・アルメイダ、ディフェンダーのアリシオ・ソラリンデやロヘリオ・デルガドなどがいる。国際舞台での成功はとどまることを知らず、また1978年シーズンから1983年シーズンには国内リーグ6連覇(エクサカンペオナート)を記録し、自身が持つ最多連覇記録を更新した。 1979年にコパ・リベルタドーレスで優勝したことで、ファンは国際大会での成功を渇望するようになり、ディブ会長はリーガ・エスパニョーラで実力を証明したパラグアイ代表ストライカーのラウル・アマリージャの獲得に大金を支払ったが、アマリージャは期待外れに終わった。1989年にはコパ・リベルタドーレスで決勝に進出し、アトレティコ・ナシオナル(コロンビア)に敗れたが、1990年の同大会準決勝で再びアトレティコ・ナシオナルと対戦し、リベンジに成功した。決勝ではバルセロナSC(エクアドル)と対戦。アスンシオンでのファーストレグには2-0で勝利し、グアヤキルでのセカンドレグに1-1で引き分けて2回目の優勝を決めた。この偉大なチームではアルメイダ、ガブリエル・ゴンサーレス、アドリアーノ・サマニエーゴ、アマリージャなどが中心選手だった。コパ・リベルタドーレスだけでなく、1990年にはスーペルコパ・スダメリカーナでも優勝した。歴代のコパ・リベルタドーレス優勝クラブが集ったこの大会では、決勝でナシオナル(ウルグアイ)を2試合合計6-3で破った。コパ・リベルタドーレスとスーペルコパ・スダメリカーナの両方で優勝したことから、自動的にレコパ・スダメリカーナのタイトルも獲得した。年末には日本で開催されたインターコンチネンタルカップに出場したが、ACミラン(イタリア)に0-3で敗れた。1979年と1990年に成し遂げた偉業の結果、オリンピアは南米でもっとも敬われるクラブ、もっとも伝統あるクラブの1つとなった。1991年のコパ・リベルタドーレスでは3年連続で決勝に進出したが、CSDコロコロ(チリ)に敗れて準優勝に終わった。ロベルト・ペルフーモ監督が率いた1992年のトルネオ・レプブリカでは無敗優勝を果たし、国内リーグでは1997年シーズンから2000年シーズンにかけて4連覇を達成した。
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