鶴岡監督の退団、蔭山の新監督就任
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「南海蔭山新監督急死騒動」の記事における「鶴岡監督の退団、蔭山の新監督就任」の解説
南海ホークス監督の鶴岡一人は監督就任20年目の1965年、2リーグ制後8度目のパ・リーグ優勝を決めたが、読売ジャイアンツとの対戦となった日本シリーズは1勝4敗で敗れた。シリーズ閉幕の翌11月6日、鶴岡は大阪市難波にある旅館「新常盤」で午後5時から記者会見を行い、「南海を退団したい。明日(7日)に壷田修オーナーへ辞表を提出する」と発表した。鶴岡は会見で、日本シリーズでの敗退が監督を辞任する理由ではなく、「春季キャンプの時から監督生活20年目となるこの年を最後に辞任することを決意していた」と述べた。鶴岡は会見での言葉通り翌11月7日の午前8時に泉北郡高石町(現・高石市)にある壷田の自宅を訪れ、辞表を提出した。その際、球団社長の新山滋も同席し、鶴岡は壷田と新山から監督辞意を思いとどまるよう説得されたが、鶴岡の意思は固く、退団は決定的となった。 鶴岡の記者会見が行われた6日、ヘッドコーチの蔭山和夫も球団社長の新山に辞表を提出していた。蔭山は翌7日、高石町にある自宅に報道陣を招いて現在の心境を語った際にこのことを明らかにし、「日本シリーズで敗れた原因となった打撃と守備の担当者としてその責任を感じる」と退団を決した理由を述べた。蔭山はチームが低迷していた1962年、鶴岡が「指揮官が悪ければ部下は全滅する」と言って休養した際に監督代行を務め、最終的にチームを2位まで引き上げた実績があり、鶴岡の後任として最有力候補だった。その蔭山が辞表を提出したことで、南海ホークスは大揺れとなった。11月8日、南海ホークスは大阪市内で役員会を開き、鶴岡の辞任を認めるとともに、蔭山の監督昇格を決定。これにより鶴岡の退団が正式に決定した。鶴岡は翌9日、同日に大阪球場で開催された選手の集会に顔を出し、退団の挨拶をした。 一方、南海は球団社長の新山が8日の役員会終了後すぐに鶴岡の自宅を訪ねて辞任を了承したことを伝えるとともに、蔭山の監督就任を説得するための協力を依頼、鶴岡も「出来るだけ協力する」と了承した。新山はその足で蔭山の自宅を訪ねて、退団を撤回して監督に就任するよう要請した。蔭山は依然として辞意が固かったものの、9日までに返答すると答えた。蔭山は翌9日、大阪市内の鶴岡の自宅を訪問して球団からの監督就任要請について相談。蔭山は鶴岡から監督就任を説得された末に態度を軟化させ、球団事務所に新山の元を訪れて「条件をのんでくれれば(監督を引き受ける」と回答した。 11月11日午前、新山は蔭山を大阪市内の球団事務所に招き、蔭山が9日に提示した条件を了承すると伝えた。しかし蔭山は「口約束だけでは不安だ」と述べて、条件を文書化させてほしいと要望した。11月13日、午前10時から南海電鉄本社内で壷田、新山、蔭山、鶴岡の4名が話し合った結果、球団は蔭山の要望を全面的に認めた。そして同日午後1時45分から新山が本社内で記者会見を開き、蔭山の南海ホークス監督就任を正式に発表した。
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