香川県成立
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1871年12月26日(明治4年11月15日)、廃藩置県により香川県が成立し高松はその県庁所在地になったが、2年後の1873年(明治6年)2月20日には名東県(現在の徳島県)に吸収合併され香川県と共に高松の県庁所在地としての地位は消滅した。更に2年後の1875年(明治8年)9月5日には再び香川県は独立し、高松は再び県庁所在地になったが翌1876年(明治9年)8月21日には再度、今度は愛媛県に吸収合併された。しかし、それも風土や文化の違いから分離独立運動が激しく起こった為長続きせず、1888年(明治21年)12月3日には現在の香川県が成立した。17年の間に4度も合併と分離を繰り返した挙句、全国で最後に成立した県となった。このことを揶揄した「名東(夫婦)別れて愛媛に身売り香川は再び里帰り」という俗語も生まれた。 この県の存在を巡る混乱は県庁所在地の高松にとって、その後の発展に非常に大きな影響を与えることになる。そもそも江戸時代、藩の所在地では武士などの富裕層がその街の経済における潤沢な消費者であった。その後、版籍奉還とともに武士などの富裕層はその多くが没落して、以後は彼らに代わって軍人や官吏などがその役目を負うことになる。全国の県庁所在地の多くは旧藩庁所在地であったため、この頃になると既に他の県庁所在地は軍人や官吏などの富裕層が多く育ち、武士に代わって引き続き街の経済を繁栄させていた。しかし、同時期の高松は県庁の存在さえもいつまた消滅するかもわからない不安定なものであったほか、軍隊も丸亀へ設置(歩兵第12連隊)されたために街の消費を支える富裕層が決定的に不足していた。県を巡る大混乱が17年間も続いた香川県は結果的に他県に比べてその県庁所在地の発展が大きく出遅れることになる。 しかし、その後宇高連絡船の就航で四国の玄関として発展したり、戦後はその影響で四国地方を統括する企業や物流の中心都市としての地位を確立し、さらに国の出先機関のほとんどが置かれるなど四国の行政都市としても発展することになる(→行政都市の確立)。
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