隠居と晩年とは? わかりやすく解説

隠居と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:38 UTC 版)

山本常朝」の記事における「隠居と晩年」の解説

同年5月16日藩主の光茂が69歳生涯を閉じるや、42歳この年まで30年以上「お家我一人で荷なう」の心意気側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒剃髮して名を旭山常朝と改めた7月初旬佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村現在の佐賀市立町黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法(のり)の道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じ隠棲した。 田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年1710年3月5日のことである。『葉隠』の語り筆記がはじまる。 のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所定めたので、常朝は遠慮して正徳3年1713年黒土原から西方11キロ大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む正徳4年1714年5月川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する享保元年1716年9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻編集を了える。山居すること20年享保4年1719年10月10日61歳没した翌日、庵前において野焼墓所八戸龍雲寺辞世の歌重く煩ひて今は思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下虫の音弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを

※この「隠居と晩年」の解説は、「山本常朝」の解説の一部です。
「隠居と晩年」を含む「山本常朝」の記事については、「山本常朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「隠居と晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「隠居と晩年」の関連用語

隠居と晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



隠居と晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの山本常朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS