陸援隊結成とは? わかりやすく解説

陸援隊結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:42 UTC 版)

中岡慎太郎」の記事における「陸援隊結成」の解説

7月22日(太陽暦8月21日)、慎太郎は、土佐藩大目付(大監察)本山只一郎書状送った。 (前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵引受、奇變之働を爲し候に、本陣顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。右者、私内存之處相認、御侍中、并(ならびに)、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木(高行)樣より御氣付に付、如此御座候誠恐頓首。(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。本山(只一郎)樣玉机下匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候。 研究者平尾道雄は、上記書状について、「議論周旋も結構だが、しょせん武器をとって立つ覚悟なければ空論となろう薩長意気をもってすれば近日開戦必至の勢であるから、容堂公の上京も、その覚悟なければ中止した方がよろしい」と要約している。先の薩土盟約仲介し大政奉還推進協力した慎太であったが、一方で武力倒幕可能性視野入れて動いており、この前11月には、『時勢論 三』(愚論カニ知己ノ人ニ示ス)の中で、長州手本にした軍制改革を、土佐同志たちに向けて詳細に説いている。 慶応3年7月27日(1867年8月26日)、慎太郎は京都白川土佐藩邸に浪士たちを集め陸援隊組織し自ら隊長となる。 9月22日慎太郎は、土佐在国同志大石弥太郎(円)宛てに「兵談」と題した書状したため、より具体的な軍隊編成案を説いている。

※この「陸援隊結成」の解説は、「中岡慎太郎」の解説の一部です。
「陸援隊結成」を含む「中岡慎太郎」の記事については、「中岡慎太郎」の概要を参照ください。

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