陸援隊結成
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7月22日(太陽暦8月21日)、慎太郎は、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎へ書状を送った。 (前文欠)又、乍恐窃に拝察候得者、君上御上京之思食も被爲在哉に而、難有仕合に奉存候。然此度之事、御議論周旋而己に相止り候得者、再度上京の可然候得共、是より忽ち天下之大戰争と相成候儀、明々たる事に御座候。然れば、實は上京不被爲遊方宜敷樣相考申候。斯る大敵を引受、奇變之働を爲し候に、本陣を顧み候患御座候而は、少人數之我藩別而功を爲す事少かるべしと奉存候。乍恐、猶名君英斷、先じて敵に臨まんと被爲思召候事なれば、無之上事にて、臣子壹人が生還する者有之間敷に付、何之異論可申上哉、只々敬服之次第也。此比長藩政府之議論を聞に、若(し)京師(に)事有ると聞かば、即日にても出兵せんと決せり。依て本末藩共、其内令を國中に布告せり。諸隊、之が爲めに先鋒を争ひ、弩を張るの勢也との事に御座候。右者、私内存之處相認、御侍中、并(ならびに)、乾(退助)樣あたりへ差出候樣、佐々木(高行)樣より御氣付に付、如此御座候。誠恐頓首。(慶應三年)七月廿二日、(石川)清之助。本山(只一郎)樣玉机下。 匆々相認、思出し次第に而、何時も失敬奉恐謝候。 研究者の平尾道雄は、上記の書状について、「議論周旋も結構だが、しょせんは武器をとって立つ覚悟がなければ空論となろう。薩長の意気をもってすれば近日開戦は必至の勢であるから、容堂公の上京も、その覚悟がなければ中止した方がよろしい」と要約している。先の薩土盟約を仲介し、大政奉還の推進に協力した慎太郎であったが、一方で、武力倒幕の可能性も視野に入れて動いており、この前年11月には、『時勢論 三』(愚論窃カニ知己ノ人ニ示ス)の中で、長州を手本にした軍制改革を、土佐の同志たちに向けて詳細に説いている。 慶応3年7月27日(1867年8月26日)、慎太郎は京都白川土佐藩邸に浪士たちを集め、陸援隊を組織し、自ら隊長となる。 9月22日、慎太郎は、土佐在国の同志・大石弥太郎(円)宛てに「兵談」と題した書状をしたため、より具体的な軍隊編成案を説いている。
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