開拓者の到着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 01:02 UTC 版)
「エメリー郡 (ユタ州)」の記事における「開拓者の到着」の解説
1875年、サンピート郡の家畜飼育者が牛と羊を連れてキャッスル・バレーで餌を与えるために訪れ、その地域が開拓に適している可能性を認識した。サンピート郡では十分な土地と水がなかったことと、末日聖徒イエス・キリスト教会の指導層が非教会員の入ってくる前に占有されていない土地を獲得したいという望みがあったことで、1877年秋に若い家族がキャッスル・バレーに移転を始め、ハンティントン、フェロン、キャッスルデールおよびオレンジビルの町となる場所に落ち着いた。 1877年8月下旬、末日聖徒イエス・キリスト教会の大官長ブリガム・ヤングがサンピート教区官長に「...今年秋にキャッスル・バレーで少なくとも50家族を入植させる」ことを求める命令を出した。この命令により、ブリガム・ヤングが指示した中では最後のモルモン教徒開拓地ができた。1週間後の8月29日、偉大な植民者と言われたヤングが死んだ。ヤングは教会指導者だった30年間で、400に近い町や村の設立を監督・指示していた。エメリー郡内の開拓地が最後のものだった。 ヤングが命令を発してから間もなく、数隊の開拓者がサンピート地域を出て、キャッスル・バレーに向かった。彼等はハンティントン・クリーク、コットンウッド・クリーク、フェロン・クリーク沿いに入植した。翌1878年春、さらに幾つかの家族がこの地域に入った。エリアス・コックスとチャールズ・ホリングスヘッドがハンティントン・キャニオンに製材所を設立し、開拓地に材木を供給した。フェロン・クリークでは、開拓者が土地を耕し、灌漑用溝の建設を始めた。キャッスル・バレーの初期開拓者の大半はクリークや川に沿った水を得られる土地を容易に入手でき、1879年までに最良の土地の大半が占有された。 1880年2月、ユタ準州議会によってエメリー郡が創設され、このときは後にカーボン郡となる地域も含まれていた。1880年国勢調査では人口556人、農場数84だったが、この数字は、多くの著名開拓者が郡の役割から不注意にはずされていたので、少ない可能性がある。1890年までに人口は2,866人まで増加し、倒れそうな小屋の集落から、学校、店舗、教会のある町に成長していった。1880年から1900年の間で、ハンティントン(1884年)、エメリー(1885年)、クリーブランド(1885年)、ウェイクフィールド(1880年)など、多くの重要な運河が建設された。初期の運河の多くは現在も使われている。 1880年代初期、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道がエメリー郡のある地域を通す鉄道ルートの調査を始めた。初期の計画はエメリー郡の中心部を通るものだったが、ワサッチ山脈を超えるルートが険しすぎることが分かって中断された。代替案は郡域北東隅を通るものであり、郡内のほとんどの開拓地を素通りするものとなった。郡の大半は鉄道の恩恵を受けなかったが、郡東端のグリーンリバーの町は、鉄道が開通して一夜のうちに繁栄するようになった。
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