長尾為景塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 13:52 UTC 版)
能景塚の西約170メートルに位置する塚。長尾為景の没年・没地は諸説あり、確証を得ないが主に2説ある。ひとつは、弘治2年(1556年)6月28日の長尾景虎書状に“道七(為景)が「死期之刻」に凶徒が春日山城まで攻め来たり”と記述があるように、本拠である春日山城で没したとする説。他方は、一向一揆により越中国千檀野(栴檀野)の地で討死したとの説である。これは近世に入ってからの書物(「越中志徴」ほか)の影響が多分にあると思われるが、先の景虎書状をはじめ、林泉寺旧過去帳、林泉寺旧霊牌写、吉江氏蔵過去帳、上杉家旧蔵招霊棚掛物などは、道七沙弥(為景)の没年を天文5年(1536年)12月24日としており、没地も春日山城下であったとするのが定説となっている。また、近年では天文11年(1542年)12月24日死亡説も出されている。長尾為景塚は、砺波市頼成新にある塚がよく知られるが、富山市婦中町牛滑にも同名の塚が残されている。
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