長尾為景との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/09 23:07 UTC 版)
永正四年(1507)、長尾為景が越後守護上杉房能を攻め、房能が兄・上杉顕定を頼って関東に逃亡する途中に自害に追い込んだ。(永正の乱) この報復として、永正六年(1509)に上杉顕定は長尾為景攻めの大軍を起こし、長尾為景を越中国に追放するが、その翌年永正七年(1510)には長尾為景の反攻により上杉顕定が自害した。(長森原の戦い)千坂氏は上杉家古臣だったが、上杉顕定自害後は他の上杉家家臣と同様、長尾為景の越後統治に協力するようになった 永正十八年(1521)には長尾為景の一向宗禁止(禁無碍光衆)重臣連署契状に長尾一族(長尾景慶、長尾房景、長尾憲正)と共に上杉家古臣斎藤昌信、石川景重、在地土豪毛利廣春とともに千坂景長の署名がある。 このことは、長尾為景が上杉氏の支配機構をそのままの形態で再編成し越後の支配者になったことを表している。
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