長い分裂時代とは? わかりやすく解説

長い分裂時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:12 UTC 版)

ポーランド」の記事における「長い分裂時代」の解説

1138年ボレスワフ3世王国領土7つ分割しそのうち5つを后と4人の息子たちそれぞれ相続させた。そのうち長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後クラクフ大公就いた者がポーランド王権を継ぐこととした。残りポモージェ地方ポーランド王国直轄領とし、現地諸侯実質的支配任せた1079年大公についたヴワディスワフ2世国家統一画策し大公権力強化反対するグニェズノ大司教対立して大公支持派大司教支持派の間で内戦となった戦争長引き王国はどんどん小さな領邦分裂していった。 1146年時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)からの援助を得る見返りに、当時神聖ローマ皇帝ロタール3世臣従し、これによってシロンスク公領支配権得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領当地ピャスト家支配したままポーランド王国からは独立した態となった。グニェズノ大司教ないがしろにしたうえ、シロンスク地方ポーランド王国から独立させたことがポーランド国内大問題となり、ヴワディスワフ3世大司教から破門され神聖ローマ帝国亡命してのちにフリードリヒ1世居城客死したシロンスク公国以後シロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうち一族17世紀まで続いた庶子系統地方領主として18世紀まで続いた)。以後クラクフ大公の位は継続したが、その権威は地に墜ち、ポーランド王国王位を継ぐものがいないまま、各地領邦にどんどん分裂していった。 1226年ポーランドコンラト1世 (マゾフシェ公)隣国異教徒プルーセン人対す征討教化手を焼いて、クルムラント領有権引き換え当時ハンガリーにいたドイツ騎士団招聘した。1228年皇帝フリードリヒ2世リミニ金印勅書により騎士団プロイセン領有認められ1230年クルシュヴィッツ条約基づいてコンラート1世騎士団にクルムラントおよびプロイセンすべての権利認め騎士団プロイセン領有権得た教皇の名の下、騎士団プロイセン東方殖民として統治し近代化開拓商業的発展布教教育などに従事した

※この「長い分裂時代」の解説は、「ポーランド」の解説の一部です。
「長い分裂時代」を含む「ポーランド」の記事については、「ポーランド」の概要を参照ください。

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