鎌倉事件
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鎌倉事件(かまくらじけん)は、幕末の元治元年10月22日(1864年11月21日)に相模国鎌倉郡大町村(現在の神奈川県鎌倉市御成町)でイギリス人士官2名が武士に殺害された事件である。
- ^ 鎌倉市市史編さん委員会編1990、p710。
- ^ 岡田章雄1977、p135-140。
- ^ 。梟首の様子がフェリーチェ・ベアトによって撮影された<red>後藤和雄、松本逸也編1987
- ^ 岡田章雄1977、p158-165。ほかに処刑時の清水の様子についてはジョン・レディ・ブラック1970、p25-29。アーネスト・サトウ1960、p169-171を参照。
- ^ 岡田章雄1977 p144 佐藤清彦1991、p26
- ^ 岡田章雄1977 p143、p164
- ^ 通信全覧編集委員会編1987 p83
- ^ 後藤和雄、松本逸也編1987 p181、アーネスト・サトウ1960、p169訳注など
- ^ 岡田章雄1977 p143、佐藤清彦1991 p31、p32
- ^ 佐藤清彦1991 p35。
- ^ 岡田章雄1977、p180 - 182。
- ^ 通信全覧編集委員会編1987、p106、109。
- ^ 同上、p105
- ^ 当時戸塚宿の宿役人だった川島弁之助が保管していたこの罪状書の写しが『横浜どんたく』(上)所収の同人の談話「鎌倉八幡前英国人殺害一件」に収録されている(p129、p130)。
- ^ 青木弥太郎1971、p36-37。青木によると、井田は青木のもとに出入りしていた姫路藩出身の攘夷浪士だったが、非常に乱暴な人物で、ある事件を起こして江戸から逃げる途中、間宮と二人で鎌倉でイギリス人を斬り、江戸で賊を働いて逃走中だった水戸浪士の清水はこのことを行きずりに出会った井田から聞き、どうせ死罪になるならと考えて井田の替わりにイギリス人殺しを自訴したのだという(実際には、清水は前述のように潜伏中に捕縛されている)。また、青木は、間宮の養父・平尾桃厳斎と親しく、修行中の間宮を一時期預かったこともあったという。
- ^ 佐藤清彦1991 p41 - 55。なお、佐藤はその背景について、イギリスより短期間での事件解決を迫られながら捜査に行き詰まっていた幕府が、たまたま犯人を騙っていた清水を裏付け捜査の不十分なまま犯人と即断、早々と処刑して対外的な面目を保ったものの、後に間宮と井田の2人が真犯人である事が明らかとなったため、先に捕らえられた清水と間宮が犯人であるとして辻褄を合わせ、井田の存在を可能な限り抹消する事によって、拙速に清水を処刑した失態を隠蔽したものと推測している。 なお、井田のその後について青木は「両者ともに殺されました」と述べており、間宮同様に処刑された事を示唆しているが、その詳細については不明である。
- ^ 岡田章雄1977、p184-185。
- ^ 旧事諮問会編1986、p294-295。この罪人は処分保留のまま山口の転任後に獄中死したという。
鎌倉事件
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「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「鎌倉事件」の解説
詳細は「鎌倉事件」を参照 元治元年10月22日(1864年11月21日)、イギリスの横浜駐屯歩兵第20連隊付き士官ジョージ・ボールドウィン少佐とロバート・バード中尉の2名が、鎌倉で惨殺された。幕府は下手人を捜索していたが、蒲池源八と稲葉丑次郎を捕縛。11月18日、横浜戸部の刑場において斬首した。11月25日、犯人の1人、元谷田部藩士清水清次が捕縛され、11月28日、横浜市中引き回しの後、翌11月29日、戸部にてイギリス守備隊分権隊の見守るなか斬首、吉田橋にて梟首された。翌慶応元年9月11日、清水清次の共犯者、旗本内藤豊助家来間宮一が戸部で斬首、吉田橋で梟首された。
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