鍾会の乱(成都大騒擾)
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「蜀漢の滅亡」の記事における「鍾会の乱(成都大騒擾)」の解説
劉禅を降伏させた鄧艾は旧蜀漢領統治の主導権を握るが、264年春1月、相次ぐ独断専横のため兵権を剥奪され逮捕された。独立の野心を抱いていた鍾会は大軍勢を1人で統率するようになったので、姜維とともに魏に反逆し、胡烈を含む一部の将軍・役人を幽閉した。 胡烈の元部下の丘建の従卒が胡烈に食料を差し入れに来た。また、それにならって胡烈の部下の従卒も胡烈に食料を差し入れに来たが、胡烈はその従卒に「丘建が極秘に情報を提供してくれた。鍾会は大穴を掘り、棒を数千本用意して、よその兵を順番に棒で殴り殺して、穴に投げ込むつもりらしい」という嘘の情報を流した。また、賈輔や王起も同様の情報を流した。これらの情報を聞いた胡烈の息子の胡淵や衛瓘ら諸軍が鍾会・姜維を襲って殺し、鍾会の乱は終わった。この乱で成都は甚大な被害を受けた上に、鄧艾や左車騎将軍張翼や蜀漢皇太子劉璿ら多数の将兵が死亡したという。このとき王隠の『蜀記』によると龐徳の子供龐会が関羽の子孫を皆殺しにしたとされるが、陳寿はじめとする蜀人の史家はそのような記録は残していない。
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