鉄道連絡船以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)
津軽海峡を渡る航路は1873年(明治6年)2月、青森 - 函館間の青函航路および安渡(大湊) - 函館間航路が北海道開拓使によって開設された。同月、山口県下関の小田藤吉も青函航路に参入したが、ほどなく撤退した。1879年(明治12年)6月に至り、既に東京 - 函館間航路も運航していた郵便汽船三菱会社が北海道開拓使から青函航路を引き継いだ。しかしこれ以前より、郵便汽船三菱会社による日本の海運界独占が顕著となり、運賃が高騰、これに対抗する共同運輸会社が1882年(明治15年)7月設立され、青函航路にも参入した。しかし今度は両社とも採算度外視の無制限競争状態に陥ったため、共倒れを危惧した政府の意向で1885年(明治18年)9月、両社は合併し日本郵船会社を設立、同年10月1日より青函航路を継承し、政府による命令航路として毎日1往復の定期運航が確保された。
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