運転停止とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:25 UTC 版)
愛知電灯の合併後、さらなる需要増加の対策として名古屋電灯では開業以来の低圧直流送電方式を効率の良い高圧交流送電方式に転換することを決定、水主町(現・名駅南)にて第三発電所、後の水主町発電所の建設に着手した。第三発電所はまず300キロワット発電機1台からなる第1期工事が1901年(明治34年)6月に落成、7月22日より交流2,300ボルト送電が始まる。次いで同型発電機1台を追加する第2期工事も完成して1904年(明治37年)6月4日より送電を開始した。 新しい水主町発電所の建設に伴い、直流送電の旧式発電所は順次淘汰された。まず水主町発電所運転開始の2日後に下広井町の第二発電所が運転を停止する。南長島町の第一発電所についても、1904年の2台目の発電機運転開始と同時に運転を停止し、予備発電所となった。停止後の第一発電所では、構内にあった本社が同年7月に水主町発電所構内へと転出。その後は建屋が試験室や電線・器具の倉庫として活用されたが、1911年(明治44年)9月17日、試験室からの発火で全焼した。焼け跡には、電線・器具を収納する煉瓦造り2階建ての2棟からなる「南長島町倉庫」が建てられた。 電灯中央局の跡地には、1986年(昭和61年)になって中部電力の電気文化会館(でんきの科学館)が建設された。会館正面広場の壁面には「中部地方電気事業発祥の地」のプレートが掲げられている。
※この「運転停止とその後」の解説は、「電灯中央局」の解説の一部です。
「運転停止とその後」を含む「電灯中央局」の記事については、「電灯中央局」の概要を参照ください。
- 運転停止とその後のページへのリンク