軍事政権期の1973年-1989年までの改革
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「チリ大学」の記事における「軍事政権期の1973年-1989年までの改革」の解説
1973年から1989年までのアウグスト・ピノチェトによる軍事政権の時代に、大学は多くの重要な変化に苦しんだ。1973年10月2日には、法令第50号によって大学総長が軍事政権に指名された。 大学の統合への二つ目の大きな風は1981年1月3日に訪れ、もうひとつの法令が大学を完全に再構成した。全ての州のキャンパスはすべて分離され、国家技術大学(現在のサンティアゴ・デ・チレ大学とアタカマ大学)に統合され、現在のメトロポリターナ教育科学大学とアントファガスタ大学、タラパカ大学、オソルノプロフェッショナル研究所(現在のロス・ラゴス大学)、チジャンプロフェッショナル研究所(現在のビオビオ大学)、フロンテーラ大学、セレナ大学などへの分離が明示された。 これらの変化は大学の政治、経済、公的政策、知的運動への影響を著しく減少させるために、軍事政権に影響を及ぼしたアドバイザーによって組織化された。このプロセスと同時に、チリ・カトリック教皇大学にはチリ大学と匹敵する存在となれるよう重点的な支援がなされた。具体的には、1973年にチリ大学は約65,000人の学生を抱えていた。今日では26,000人である。対照的にチリ・カトリック大学は1973年に約15,000人だったのが21,650人以上に増加した。幾つかの私立大学が軍事政権の終りまでに設立され、これらの機関の一部はネオリベラル経済の傾向を見せた。こうしてシカゴ・ボーイズはチリの経済と高等教育を通した公的政策への影響を不滅のものにすることを可能にした。 大学の編成が完全に再構成されたにもかかわらず、チリ大学はチリの最も権威ある大学の一つとして現在も威信を保っている。
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