足代弘訓とは? わかりやすく解説

あじろ‐ひろのり【足代弘訓】

読み方:あじろひろのり

[1785〜1856江戸後期歌人国学者伊勢外宮(げくう)の神官。号は寛居(ゆたい)。晩年尊王説き古典類聚(るいじゅ)編纂(へんさん)に努めた歌集に「海士(あま)の囀(さえずり)」がある。


足代弘訓

読み方あじろ ひろのり

江戸中期画家本草学者名古屋藩儒医京都生。浅井東軒の子。名は初め政直のち惟寅、字は夙夜通称頼母別号に幹亭・篤敬斎。画を望月玉蟾学び、特に墨竹に秀で平安四竹の一人数えられている。天明2年(1782)歿、77才。

足代弘訓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 16:32 UTC 版)

伊勢市駅の北口改札付近にある足代弘訓の墓所(三重県伊勢市、2016年11月に撮影)

足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日1785年1月6日) - 安政3年11月5日1856年12月2日))は、日本江戸時代後期の国学者歌人。号は寛居(ゆたい)。通称は式部・権太夫。父は伊勢外宮祠官足代弘早[1]伊勢国の人。

生涯

伊勢内宮の荒木田久老国学を学び、久老の没後は本居春庭本居大平の門に入った。伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。京阪江戸に出て多くの文人と交流している。大塩平八郎とも親交があったことから、大塩平八郎の乱において関与を疑われて取り調べを受けている[2]。神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。

門下に正住弘美、志田義貫、生川正香、白井重固、渡辺政香らがいる。

作歌

  • 『皇国の四季』(共作)

脚注

注釈

出典

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 36頁。
  2. ^ ロバート・キャンベル「足代弘訓」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8



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