賈南風の暴虐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 08:08 UTC 版)
賈南風の淫虐が日々酷くなるのに際して、裴頠はこの事を憂慮しており、ある時賈南風の親族であった賈模からも、張華らと共にこの件に関して相談を受けた。この談義の後、裴頠は幾度も賈南風の母の郭槐の下へ赴き、賈南風へ皇太子と親しく接し、宮中での行いを慎むように諫めて欲しいと頼みこんだ。ある人物は裴頠に対し「賈南風に改める様子がないのであれば、病を理由にして朝廷から離れるべきだ。そうでなければ例え何度諫言をしたところで、近々禍から逃れることはできないだろう」と告げたが、裴頠は感慨の嘆息を漏らしたものの、それを実行する事はなかった。8月、裴頠は尚書僕射に任じられ、侍中はそのままとされた。 賈模もまた幾度も賈南風へ諫言したが、逆に疎んじられるようになり、憂憤から病にかかり死去した。そこで恵帝は賈模の後任として、裴頠へ門下の事務を主管するよう命じると、裴頠は上書して「陛下は近親の情に溺れて外戚ばかりを登用しており、故に世は治まっておりません。朝廷は外戚に偏った権限を等しくし、代わって以前よりこの風潮を諫めてきた者を重用すべきです」と述べ、自らもまた賈氏の縁戚に当たる立場であった事から辞退したが、恵帝は再度特別に詔を下し、任官を受けるよう諭した。
※この「賈南風の暴虐」の解説は、「裴頠」の解説の一部です。
「賈南風の暴虐」を含む「裴頠」の記事については、「裴頠」の概要を参照ください。
- 賈南風の暴虐のページへのリンク