豊後のキリシタンとは? わかりやすく解説

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豊後のキリシタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:38 UTC 版)

豊後崩れ」の記事における「豊後のキリシタン」の解説

キリシタン大名大友宗麟支配していた時期大友氏政治拠点である府内臼杵津久見や、有力豪族拠点大野郡野津(のつ)・三重宇目地方直入郡朽網(くたみ)、速見郡由布院地方などを中心に布教が行われ、豊後民衆の間にキリスト教浸透していった。 天正18年1587年)のバテレン追放令の後、大友義統宣教師退去命じた。約3信者擁していた豊後でも、教会は非常な苦痛こうむり信仰をすてるものもいたという。しかし、宗麟の未亡人志賀親次らの保護により信仰維持する者もおり、その中には豪族武士もいた。 慶長17年1612年8月江戸幕府による禁教令出された際には、豊後高田市野津神父追放されたが、志賀(現・竹田市)の宣教師追放されなかった。臼杵藩ではそれまでキリシタン好意的だったが、以後弾圧開始し領内在住していた宣教師たち追放し府内藩でも弾圧をはじめ、小倉藩岡藩でも五人組寺請制度踏み絵が行なわれた。 翌18年1613年)には各藩幕府動向うかがいながら弾圧緩和したが、19年1614年)に幕府キリシタン禁制本格的になったことから、臼杵藩では弾圧強化国東郡速見郡ではキリシタンの転宗が強制され元和6年1620年)には禁教消極的だった岡藩弾圧始めたこのような状況を、「小藩分立」の豊後では各領主改易恐怖さらされつつ、幕府への忠誠の証として弾圧励んでいると書かれた。

※この「豊後のキリシタン」の解説は、「豊後崩れ」の解説の一部です。
「豊後のキリシタン」を含む「豊後崩れ」の記事については、「豊後崩れ」の概要を参照ください。

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