豊後のキリシタン
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キリシタン大名の大友宗麟が支配していた時期、大友氏の政治拠点である府内・臼杵・津久見や、有力豪族の拠点の大野郡野津(のつ)・三重・宇目地方、直入郡朽網(くたみ)、速見郡由布院地方などを中心に布教が行われ、豊後の民衆の間にキリスト教は浸透していった。 天正18年(1587年)のバテレン追放令の後、大友義統が宣教師の退去を命じた。約3万の信者を擁していた豊後でも、教会は非常な苦痛をこうむり、信仰をすてるものもいたという。しかし、宗麟の未亡人や志賀親次らの保護により信仰を維持する者もおり、その中には豪族や武士もいた。 慶長17年(1612年)8月に江戸幕府による禁教令が出された際には、豊後高田市や野津の神父が追放されたが、志賀(現・竹田市)の宣教師は追放されなかった。臼杵藩ではそれまでキリシタンに好意的だったが、以後弾圧を開始し領内に在住していた宣教師たちを追放し、府内藩でも弾圧をはじめ、小倉藩や岡藩でも五人組や寺請制度、踏み絵が行なわれた。 翌18年(1613年)には各藩は幕府の動向をうかがいながら弾圧を緩和したが、19年(1614年)に幕府のキリシタン禁制が本格的になったことから、臼杵藩では弾圧を強化、国東郡・速見郡ではキリシタンの転宗が強制され、元和6年(1620年)には禁教に消極的だった岡藩も弾圧を始めた。このような状況を、「小藩分立」の豊後では各領主は改易の恐怖にさらされつつ、幕府への忠誠の証として弾圧に励んでいると書かれた。
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