護国戦争後の活動
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1916年(民国6年)6月から8月に、張耀曽は段祺瑞内閣の司法総長に任命され、李根源ら政学派の構成員の1人とみなされた。翌年5月の李経羲内閣発足に際しても司法総長に任命されたが、実際には就任しなかった。10月、北京大学に復帰している。 1922年(民国11年)8月、唐紹儀臨時内閣で署理司法総長となる。1923年(民国12年)、欧州の司法制度視察に赴き、帰国後に法律討論会会長、上海中国公学社会科学院法律系主任兼教授となった。その翌年10月に黄郛内閣の司法総長となったが、1月余りで辞任した。 以後、上海にとどまって弁護士となり、上海法学院法律系主任もつとめた。このほか、新中国建設学会常務理事などもつとめている。1937年(民国26年)8月、国防参議会参議となり、翌年6月には国民参政会参政員となった。 同年、死去。享年54。著書に『考察司法記』、『列国在華領事裁判権志要』、『民法講義』、『知非集』、『大理張氏詩文存遺』等がある。
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