護国戦争と四川での敗死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:31 UTC 版)
1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を計画する。戴戡は梁啓超・蔡鍔・唐継尭らと同様に、袁打倒へと動き始め、護国戦争の発動に与した。ところが貴州の劉顕世は、それでも袁支持の姿勢を保ち、護国軍から袂を分かとうとしていた。そこで戴戡は、貴州軍実力者・王文華とともに劉への牽制・圧力を強め、翌年1月27日に、ついに劉に貴州独立を宣言させるに至った。戴自身は、蔡が率いる護国軍第1軍の第4梯団長として四川省へ進撃し、後には右翼司令官となっている。3月22日に袁世凱は皇帝即位を取り消し、6月6日に死去して、護国戦争は護国軍の勝利に終わった。 護国戦争終結後、戴戡は、梁啓超や唐継尭の支援を受けて川軍(四川軍、四川軍閥)の内戦に介入した。この後、四川省の統治権をめぐって、雲南軍の羅佩金、川軍の劉存厚との三つ巴の抗争となる。1917年(民国6年)4月には、戴が四川省長兼督軍として成都を掌握した。しかし、北京政府の支援を受けた劉の包囲攻撃を受けて戴戡は苦境となる。戴戡は密かに成都から脱出したが、川軍の伏兵に仁寿県秦皇寺で包囲されてしまう。最後は銃により自殺(戦死説もある)した。享年39。
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