諸侯の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:29 UTC 版)
「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「諸侯の反乱」の解説
当然ながら、ハインリヒ5世がイタリアから引き揚げた後、ローマが黙っているわけがなかった。ローマ教会側はハインリヒ5世を破門し、事実上ポンテ・マンモロ協約はあっという間に反故にされた。 こうした中、勢力拡大を図る各地の諸侯がハインリヒ5世に対峙する。とりわけ、ザクセン公ロタール・フォン・ズップリンブルク(後の皇帝ロタール3世)を中心とした勢力は、マインツ大司教アーダルベルトも味方につけ、大いにハインリヒ5世を苦しめた。1119年7月24日、自らが父をおさえて王となったマインツの王国会議で、ローマ教皇との和解を約束させられた。その後、幾度からの交渉を経て、1122年9月23日にヴォルムス協約が成立する。
※この「諸侯の反乱」の解説は、「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の解説の一部です。
「諸侯の反乱」を含む「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事については、「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の概要を参照ください。
諸侯の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 06:48 UTC 版)
「ヘンリー3世 (イングランド王)」の記事における「諸侯の反乱」の解説
度重なる外征の失敗、外国人の重用、ヨーロッパ各国の王位継承問題への介入による財政難及び課税の強化に対し、イングランドの諸侯や聖職者は反発し、1258年にレスター伯シモン・ド・モンフォールをリーダーとする諸侯は、選ばれた15人により王権を監視する「国王評議会の設置」と定期的に議会を招集する「議会に関する取り決め」を定めたオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせ、王権に制限を加えた。 しかし、諸侯たちは間もなく派閥対立を始めたため、1261年にヘンリー3世は教皇アレクサンデル4世の許しを得てオックスフォード条項などの誓いを反故にした。これにより第2次バロン戦争が始まったが、1264年のルーイスの戦い(英語版)で敗れ、王太子エドワードと共に捕らえられた。1265年にロンドンで開催された議会(ド・モンフォールの議会)で、オックスフォード条項と父の時代に成立したマグナカルタを正式に承認させられた。 しかし、シモン・ド・モンフォールへの権力集中に諸侯たちは警戒し始め、1265年にエドワードが脱出に成功すると、多くの諸侯はエドワードに味方した。同年のイーブシャムの戦い(英語版)でシモン・ド・モンフォールは敗死し、その後しばらく動揺が続くが、1266年12月13日にケニルワース包囲戦(Siege of Kenilworth)における降伏でヘンリー3世は王権を回復した。1272年にヘンリー3世が崩御するまで大きな問題は起こらなかった。 跡を継いだエドワード1世は、フランス、ウェールズ、スコットランドとの戦争において諸侯の支持を得るために、しばしば議会を招集した。これらの精神は受け継がれ、現在の立憲君主制が導かれた。
※この「諸侯の反乱」の解説は、「ヘンリー3世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「諸侯の反乱」を含む「ヘンリー3世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー3世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- 諸侯の反乱のページへのリンク