論争歴
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1986年、日韓併合問題をめぐり、日本側と韓国側から2人ずつ出席しての論争が企画され、日本側からは中村と村尾次郎、韓国側からは愼鏞廈(ソウル大学教授、社会学)、姜徳相が選出され、対談した。中村の発言に激怒した愼は、対談の途中で席を蹴飛ばして退席する(この論争は日本の『文藝春秋』1986年12月号、韓国の『新東亜』という雑誌に同時掲載された)。中村の歴史問題における初論争であった。 1990年、雑誌『諸君!』に連載した「大東亜戦争への道」を秦郁彦に批判され、論争を行なう。中村は、いわゆる「旅順口事件」が発生したといわれる日に乃木希典の軍隊は旅順に入っていない、秦の論文の日付も誤りであると主張。また虐殺の責任は乃木にはないと主張した。(「諸君!」1989年11月号、1990年2〜4月号、「自由」同年6月号、10月号、12月号。うち、秦論文は秦著『現代史の争点』文藝春秋社に収録) 1995年、「支那事変」などをテーマにICU学園祭で石島紀之と論争。 1996年、東京大学総長や参議院議員を務めた林健太郎から名指しで自身の歴史観の批判を受け、反論文で応える。林は応答しなかったが、翌年、また中村らを名指しで批判し、中村は反論を執筆、両者の論争が繰り返され、応酬は足掛け3年、往復8回に及んだ。林健太郎の生涯最後の論争は、小堀桂一郎との論争とされたが、中村との論争が最後である。この論争は、『別冊正論 Extra.04』』(ISBN 459460465X)に収録されている。 1998年、「南京を考える」シンポジウムを開催したが、壇上で藤岡信勝から自説を批判された。後に雑誌『正論』誌上で藤岡と論争(1999年3月号、5月号)。近年、保守論壇およびその支持者の間では東中野修道らの南京事件虐殺ゼロ説が勢いがあるが、中村は戦時国際法を独自に検討、研究し、日本軍による不法殺害は遺憾ながら少数あったという説を展開している(前述の如く、「南京事件の数的研究」という英語論文を、昭和史研究所ホームページでダウンロードできる)。 2001年、テレビ朝日『朝まで生テレビ!』に出演、大東亜戦争肯定論の立場から[要出典]発言する。この模様は『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。―朝まで生テレビ!』(ISBN 4756138594)という書籍になっている。
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