蘇飛
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蘇飛は夏口に駐屯していた黄祖の元で都督を務めていた。あるとき巴郡の甘寧という者が食客八百人を引き連れて黄祖に身を寄せてきたが、黄祖は三年もの間、彼を礼遇できないでいた。呉の孫権の攻撃を受けて黄祖軍が敗走したとき、黄祖が厳しい追撃から逃げ延びることができたのも、甘寧が敵の校尉淩操を射殺したおかげだったが、それでも甘寧に対する待遇は以前と変わらなかった《甘寧伝》。 蘇飛はたびたび甘寧を推薦していたが、黄祖は任用しないどころか、人をやって甘寧の食客を手懐けたので、食客たちは次第に数を減らしていった。甘寧は亡命したく思ったが逮捕されまいかと心配して、一人で鬱々としてなすすべを知らなかった《甘寧伝》。 蘇飛は甘寧の気持ちを知って彼を酒宴に招き、「吾が子(あなた)を推薦したのは数回に及んだが、ご主君は任用なさらなかった。日月は過ぎ去り、人生はいくばくもない。ご自身の方から大志を立てて知己との遭遇を求められるとよかろう」と言った。甘寧はしばらくしてからようやく口を開いた。「その志はございますが、だれを頼りにすればよいのか分からないのです」。そこで蘇飛が「吾が子を邾の県長にするよう言上してやろう。それなら去就を定めるのも板の上で鞠を転がすようなものだろう」と言ったので、甘寧は「幸甚でございます」と感謝を尽くした《甘寧伝》。 黄祖は蘇飛の言上を聞き入れた。甘寧は邾県に赴任すると、寝返った食客たちを呼び返し、義勇兵を合わせて数百人を手に入れた。こうして甘寧は呉に身を寄せたのである《甘寧伝》。 孫権は黄祖を討伐するにあたって二つの箱を作り、黄祖と蘇飛の首級を収めるつもりであった。果たして、黄祖は打ち破られ、その軍勢はことごとく捕虜となった。蘇飛が人をやって我が身の危険を甘寧に知らせると、甘寧は「蘇飛から言ってこなくても忘れたりするものか」と言い、孫権が諸将らのために酒宴を開いたとき、甘寧が席を立って叩頭し、血と涙にまみれながら「もし蘇飛が逃亡を企てたなら、代わりに甘寧の首を箱に収めていただきましょう」と蘇飛の助命を歎願したので、孫権は蘇飛を赦免してやった《甘寧伝》。 |
蘇飛
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事跡
江夏太守[1]の黄祖配下の都督。当時、黄祖の下には食客の甘寧が身を寄せ、蘇飛は彼を重用するよう進言していたが、黄祖には容れられなかった。そこで蘇飛は甘寧に、黄祖の下から離れるよう進言。自由を得るための手段として彼を邾県長に推挙した。この推挙は黄祖に容れられ、これによって甘寧は孫権に仕えることができた。
建安13年(208年)[2]、孫権が黄祖を撃破し、蘇飛は捕虜となった。孫権は前もって黄祖と蘇飛の首級を納める箱を用意するほどに殺意を持っていたが、蘇飛を恩人とする甘寧の助命嘆願によって赦免された。その後の動向は不明。
羅貫中の小説『三国志演義』ではほぼ史書と同じ立場で、第38・39回に登場。捕虜となったのは潘璋との一騎打ちに敗れたためとなっている。
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』巻55 呉書 甘寧伝注『呉書』(中国語版ウィキソース)
脚注
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