藤井得三郎の親族
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藤井家は、「1805年頃、秋田から大曲に移住し、代々薬種業を営んだ家のことで藤井薬店として大曲市民に親しまれた家である。玄渕、玄信、利庵といい、その昔佐竹公が秋田に移封の際常陸(茨城)から来た人である。 県南を薬の誇る卸屋として繁昌し、よくテレビに出る龍角散本舗は当家出身で、明治時代に東京に出て、代々、得三郎を名乗り、名声を博していることは周知の事実である。 かつて、江戸、明治、大正の初期の頃までの藤井家の庭はすばらしく、今でも古老の自慢にきかれ、当時は大曲の名所でもあった。その子孫・正治郎、英之助は薬種商を経営し、今日、隆昌を続けている」。
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藤井得三郎の親族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:23 UTC 版)
「藤井得三郎 (初代)」の記事における「藤井得三郎の親族」の解説
藤井家は、「1805年頃、秋田から大曲に移住し、代々薬種業を営んだ家のことで藤井薬店として大曲市民に親しまれた家である。藤井玄淵、玄信、利庵といい、その昔佐竹公が秋田に移封の際常陸(茨城)から来た人である。 県南を薬の誇る卸屋として繁昌し、よくテレビに出る龍角散本舗は当家出身で、明治時代に東京に出て、代々、得三郎を名乗り、名声を博していることは周知の事実である。 かつて、江戸、明治、大正の初期の頃までの藤井家の庭はすばらしく、今でも古老の自慢にきかれ、当時は大曲の名所でもあった。その子孫・正治郎、英之助は薬種商を経営し、今日、隆昌を続けている。又、別家も藤井分店として薬屋を継続営業していたが、昭和の初め、男鹿(北浦)に転居した」。 子孫の正治郎は、大曲町の助役。のち町長代理。 玄淵の子孫として、六郷町の琴平地区で薬屋を営む.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}賢三(けんぞう)がおり、大変、町の人々から親しまれている。
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