蒲生家の会津藩復帰と続く家臣団の対立
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その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、敗れた西軍方についた上杉景勝は会津などを没収されて米沢30万石に減らされ、勝った東軍方についた蒲生秀行は上杉氏が没収された会津60万石を再び与えられた。しかし、蒲生家が会津に復帰した後も家臣団の対立が続いている。 著名なものだけでも以下のものが知られている。 慶長14年(1609年)、仕置奉行・岡重政と蒲生郷成父子・関元吉(一利)・小倉良清らが対立して、蒲生父子らが出奔。 慶長18年(1613年)、仕置奉行・岡重政が振姫との対立から自害を命じられ、蒲生郷成父子らが復帰また、重政派とされた外池良重が出奔し、孤立した蒲生郷貞は翌年自害した。 元和2年(1616年)、仕置奉行・町野幸和(繁仍の子)と蒲生郷喜・郷舎兄弟(郷成の子)が対立して後者が追放される。時期は不明であるが、外池良重が復帰して元和6年の末に仕置奉行に任じられている。 元和8年(1622年)、渡辺二郎右衛門が町野幸和を幕府に訴えたために町野が仕置奉行を辞任、その影響で2年後の寛永元年(1624年)に蒲生郷喜・郷舎兄弟が復帰している。 寛永4年(1627年)、蒲生秀行の跡を継いだ嫡男・蒲生忠郷が会津若松城で急死したことによって、蒲生家は加藤嘉明との所領の交換を命じられて伊予国に移ることになる。
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