自動ミュール紡績機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 01:53 UTC 版)
「ミュール紡績機」の記事における「自動ミュール紡績機」の解説
1820年頃のミュール紡績機は、一部で手作業が必要だった。この頃になると蒸気機関もかなり発達していたが、紡績機には使われていなかった。紡績機が全自動ではなかったため、成年男子が付き切りで作業する必要があった。リチャード・ロバーツ(英語版)はそれを自動式に改良し、1825年と1830年に特許を出願している。ロバーツは1830年にロバーツ織機(英語版)と呼ばれる動力織機も発明している。これらの発明は、紡績工場を大規模化させるものだった。 ロバーツが改良した点は、 外走(引き伸ばし)の後に数秒だけスピンドルを逆転させ(バックオフ)、スピンドルに糸が巻き取られ易くした。 糸が確実に糸管に巻き取られるためのワイヤーのガイドを設置した。 糸管に糸が巻き取られて太くなるのに合わせて、巻き取りの回転速度を落とした。 であり、要するに内走の糸巻き工程に人手がかからないようにする工夫が主だった。これらの仕組みの誕生は、ロバーツの功績も去ることながら、50年前のクロンプトンの時代には無い部品が数々発明されていたことも大きかった。 1834年には60以上の工場で採用され、1850年代にはイギリスの中・太手糸のほぼ全てが自動ミュールに置き換えられた。ただし、細い糸にはまだ手動ミュール紡績機が使用された。 手動ミュール紡績機で一人が同時に運転できるのは264~288錘だったが、ロバーツの自動ミュール紡績機は成年一人を2~3人の少年で補助すれば、1600錘が運転できた。これは、手動ミュール紡績機の運転調整が熟練を要したのに対し、自動ミュールの運転は糸継ぎと装置トラブルの監視だけをすればよいためだった。 自動ミュールは大量の単純労働者を生み出したため、社会に大きな影響を及ぼした。スコットランドの化学者アンドリュー・ユア(英語版)は1835年の著書『製造業の哲学』の中で早くもこの重要性に言及し、「工業自動化の完成である」と述べている。マルクスも1867年の『資本論』で、自動ミュールとその影響についてたびたび言及している。
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