義経と景時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:56 UTC 版)
同年2月の一ノ谷の戦いでは景時・景季・景高父子は範頼の大手軍に属した。『平家物語』によれば弟の景高は一騎駆けして敵中に突入。これを救わんと景時・景季も敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破り後退するが、景季が深入りしすぎて戻らない。景時は涙を流して、再び敵陣に突入して奮戦し、梶原の二度駆けと呼ばれる奮戦をした。『源平盛衰記』によれば、この戦いのときに景季は箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びた。この戦いで景季は庄高家(あるいは庄家長)と共に平重衡を捕える手柄を立てている。 一般に父の景時は源義経を陥れた大悪人とされるが、その子の景季は軍記物語では華やかに活躍している。景時も一ノ谷の戦いで東国武士らしく大いに奮戦している。 その後は父の景時とともに義経軍に属した。義経は屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏を連破し、元暦2年(1185年)3月に平氏を滅ぼした。『平家物語』『源平盛衰記』などによれば、この際に景時は逆櫓論争や先陣争いで義経とことごとく対立して深く遺恨を持ったとされる。『吾妻鏡』の合戦後の報告で景時は義経の傲慢と独断専行を厳しく非難しており、対立があったのは確かである。 義経は捕虜を連れて京へ帰還。後白河法皇はこれを賞して義経と主だった武士たちに官位を与えた。この際に景季は左衛門尉に任じられている。この無断任官を鎌倉の頼朝は激怒し、任官した24人ひとりひとりを口を極めて罵り、鎌倉への帰還を禁じた。その罵倒文が『吾妻鏡』に記されている。兵衛尉に任じられた弟の景高は「人相が悪く、痴れ者と思っていたが、任官は誠に見苦しい」と言われているのに対して、景季は名前が挙がっているだけで何も悪口が書かれていなかった。
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