織田勢主力の転進と比叡山籠城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:06 UTC 版)
「志賀の陣」の記事における「織田勢主力の転進と比叡山籠城」の解説
しかし、織田方の防衛線を破る事には成功した浅井・朝倉勢は粘る宇佐山城攻略を諦め大津へ進軍。21日には醍醐、山科まで侵攻し、京都まで迫った。 22日になって、信長のもとに「浅井・朝倉勢が織田方の防衛線を突破し京都に迫っている」という知らせが届いた。信長は京が浅井・朝倉勢の手に落ちた時の政治的影響を考え、摂津戦線から撤退することを決断した。翌23日には柴田勝家と和田惟政を殿とし、京都に撤退した。途中、淀川の下流の江口で、一揆勢が蜂起して船を隠してしまったが、信長は川を上流から下流まで見て回り、浅い部分を渡るよう指示し、無事に渡ることができた。その日は本能寺に宿泊したようである。 一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退。24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は比叡山延暦寺に対して「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。 浅井・朝倉軍は延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。
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